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表紙


8 苦い思い出



月曜に次いで火曜も残業になったが、保〔たもつ〕はいつになくご機嫌だった。 明日の朝、またマドカちゃんに会えるかもしれない。 うまくいけば、これからずっと。
 それにしても、あんな魅力的な女子が、なんで地味なヘルパーなんてやってるんだろう。 すっと通った鼻筋、つやつやの額、夢見るような瞳にかわいらしい口元。 どこを取っても、そこらへんのタレントより上じゃないか。
 一目ぼれしたせいかもしれないが、保にはそう思えてならなかった。 でも、地味な仕事だからこそ、自分にも付き合うチャンスがあるかもしれないとわくわくした。


 今度は用心して、隣に彼女が住み込んだらしいことを、家では一言も漏らさなかった。 いつかはわかってしまうだろうが、遅ければ遅いほどいい。
 それに弟のヤツには、今のところ彼女がいる。 こっちで手を出したりしないだろう。 ただ、向こうがヤツに興味を持つ可能性はあるが……。
 そう思いつくと、保はとたんに憂鬱〔ゆううつ〕になって、ショルダーバッグをどさっとベッドに投げ出した。
 腹が立つことに、弟の斉〔ひとし〕はモテ系なのだ。 確かに兄から見てもイケメンではあるが、どうもそれだけではないらしい。 若い子に言わせると、彼は『ホット』なのだそうだ。 時代遅れの激辛ラーメンか!
 そのせいで、一昨年の春、保は家を出る、出ないの騒ぎを引き起こした。 原因は松平日名子〔まつだいら ひなこ〕だ。 いい子だった。 今でもそう思う。 だが、兄の保と付き合い始めて三週間で、日名子は初めて斉と引き合わされ、ポッとなってしまった。
 別に斉が誘ったわけじゃない。 それは保にもわかっていた。 兄貴の彼女だから愛想良くしただけなのだが、日名子は家へ来るたびに、目に星を浮かべて斉を探すようになり、そんなに敏感ではない母さえ気づいてしまった。
 将来は結婚とまで考えた女の心が、目の前でどんどん離れていくのを見るのは辛かった。
 ごたごたがイヤで斉は逃げ回り、休日には家に戻ってこなくなった。 こうなったら決断するしかない。 保は日名子と話し合って交際を止め、日名子は会社のはからいで他所の課へ移った。
 彼女が友達に自分が悪いんだと言ったにもかかわらず、噂が立ち、飛ばされた日名子に同情が集まる形で、保が暗に非難される結果になった。


 それ以来、保は春が好きでなくなった。 もう二六なんだから独立してアパート住まいをしたい、と親に申し出ると、父はショックを受け、母は文字通りしがみついてきた。
「どうして? 保も斉も全然責任ないのに、今出てくと仲直りしにくくなるわよ。 日名子さん斉に告白したんだって。 でも斉はそんなこと言われても困るって。 ほんとに何とも思ってなかったから、そんなんで兄イと仲悪くなりたくないって、はっきり言ったって」
 日名子もかわいそうだったんだな、と、保はぼんやり思った。  






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