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表紙


5 戻らない昔



「そんな大金、いただけません!」
 思わず悲鳴に近い声が出た。 円香はもう肩で息をしていた。 今にもぜいぜい言いそうだった。
 蔦野はあわてず、がっかりもせず、むしろ嬉しそうにほほえんだ。
「いい方ねえ、あなた。 さすが祥一郎さんの血がつながった人だわ。 でも金額なんて心配しなくていいのよ。 言ったでしょう?私がこの世からいなくなれば、全部国のものになってしまうって」
「でも!」
 いかにも金持ちらしいのんびりした仕草で、蔦野は円香のふるえる手をやさしく叩いた。
「私たち兄妹は、父が亡くなる前に株券を分けてもらって、名義書き換えも済んでいるの。 兄は自分の取り分を持って、他所へ婿入りしてしまった。 それだけ奥さんが好きだったのね。 この地所も半分は奥さんが受け継ぐはずだったんだけど、兄より一年前に亡くなってしまって。 だから兄ががっかりして後を追うように死んでしまったとき、その遺産まで私が受け取ることになってね。 手続きが厄介で、すごく疲れたわ」
「あの、大垣さん」
 やっと少し落ち着いた円香は、座りなおして真剣に言った。
「私たち今日初めて会ったばかりですよね。 そんな大切なこと、話しちゃうの危ないと思います」
「いいえ」
 蔦野はきっぱりと言い返した。
「この家に金目のものはほとんど何も置いていません。 それに、ボロく見えるけれど警備会社と契約してるの。 うちには泥棒は入り込めないようにしてあるし、日ごろは用心してお客さんも来ないようになってるわ。 だけど、あなたは特別」
 円香は途方に暮れた。 この人は用心深いんだ。 それなのに何で私だけ、こんなに信用してくれるんだろう。
 ふと蔦野は視線を部屋にさまよわせ、壁にかけたご先祖の額を見つめた。
「私ね、両親や先祖の人たちに申し訳ないと思っているの。 結婚しようと思えばできたのに、お見合いしてもその気になれなかった。 どうしても祥一郎さんと比べてしまってね。
 兄は結婚したのに子供ができなかったわ。 それはしかたがない。 でも私は自分の身勝手で、子孫を作ろうとしなかった。 家を絶やしたのは私の責任だってね」
「そんなことは……」
 円香は口の中でもごもごと呟いた。
「いえ、やはり責任はあると思う。 それにね、隣の坊やたちを見ていると、子育てって楽しそうだなと思い始めたのよ。 もうとっくに手遅れだけど。 だから、気持ちの上だけでも、何というのかしら、親戚のおばあさんみたいに見守りたい相手がいたらなって、そう思ったのよ」
 それが、私?
 円香は震える息を吸い込んだ。
 まだ二二歳だが、円香は年より苦労していた。 特に、両親を一度に失ったときの心細さは、今でもはっきりと思い出せる。 だから、一人ぼっちになった蔦野さんの孤独な心は、よくわかる気がした。
「あり……がたいですけど、私はすごく並で、あんまり特技なんかもないし」
「え?」
 蔦野は顔をしかめた。
「そんなにきれいなのに? 並みってことはないわよ、あなた」
 それを聞いて、円香も思わず仏頂面になった。 自分がまあまあの顔をしているのは知っている。 だがこの顔で得をしたことは、あまりなかった。 損をしたことは何度かあるのだが。






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