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表紙


4 これは夢か



 そのころ、円香〔まどか〕は隣の大垣邸で、畳に敷かれた絨毯の上の応接セットに座り、蔦野とお茶を飲んでいた。 手ぶらで初めての家を訪問するのはまずいと思い、きんつばを買っていったのが役に立った。
「驚いたでしょう? 見ず知らずの人間からいきなり手紙が来て」
 きんつばを上品に竹製のフォークで割りながら、蔦野が口を切った。 そして、円香が答える前ににっこりして付け加えた。
「きんつばって懐かしいわ。 あなたのような若い方がよくご存知ね」
「おばあちゃんが好きで」
 そう言ってから、円香は小声で言い直した。
「祖母です」
「おばあちゃんでいいのよ、私には。 隣の坊やなんて私に会うと『こんにちは、大垣のおばあちゃん』って言うのよ。 年取ったなあと思わされるけど、挨拶してくれる良い子でね」
 隣の坊や! とたんに円香の頭が想像で一杯になった。 あの静かなイケメンが、この大垣さんにそう呼びかけて、にこっと挨拶するところが眼に浮かぶ。
 だめだめ。 顔と感じがいいからって、中身もいいとは限らないんだ。 さんざん学習したじゃないの── そう自分を叱って、円香は落ち着いたふうを装い、蔦野に微笑みかけた。
「あのう、それでお手紙のことですが」
「そうそう」
 とたんに蔦野のほうは真顔になった。
「私にはもう親戚縁者がいないの。 だから、死んだ後、この土地は国に没収されてしまう。 でも遺言を残せば先祖代々の土地が細切れになって、窮屈な宅地になるのを防ぐことはできるわ」
「はい」
 円香はあいまいに相槌を打った。 話がどこへ向くのかよくわからない。 円香が手紙を読んでびっくりしたのは、塀が延々と続くこの立派な敷地のことではなく……。  裏起毛のズボンの裾を上げ、暖かそうなキルティングのジャケットをまとった蔦野は、昔の美貌がまだうかがわれる細面の顔を円香に向けて、すがるように見つめた。
「だから頼んで調べてもらったの。 あなたは小田島祥一郎〔おだじま しょういちろう〕さんの弟さんのお孫さんよね?」
「……はい」
 答えるのをためらったのは、祖父の兄の名前をはっきりと思い出せなかったからだ。 円香は一度もその人に会ったことがなかった。 彼は七○年以上前にこの世を去っていた。
「うちの祖父は小田島洋二郎ですけど」
「そうそう、洋二郎さん!」
 蔦野の眼が懐かしそうにうるんだ。
「眼が丸くて、かわいい坊ちゃんだったわ。 小さいときに転んで怪我をしてね、右眉の横に三角の傷ができちゃって」
「はい!」
 やっと円香の声もはずんだ。 祖父の眉には確かにそういう傷があり、祖母にいたずらの向こう傷だとからかわれていた。
「もうお亡くなりになったんですってね。 私よりずっと若かったのに」
 蔦野の声が沈み、円香もなんだか切なくなった。 祖父は初めての孫として、円香をとてもかわいがってくれた。 不意の脳出血で急死したとき、しばらく信じられなくて、元気な顔で『ただいま!』と帰ってくる夢を、何度も見た。
「はい……」
 さっきから、はい、ばかり言っている気がする。 円香はそろそろ焦り始めた。
「祥一郎という人は、写真でしか見たことがなくて」
「それはそうね、戦死なさったんですもの」
 蔦野の声は、今でも辛そうだった。
「私たち、結婚の約束をしていたの」


 ああ、そうか── 円香はようやく納得がいった。 戦争がなければ、大垣さんは大垣さんでなく、小田島さんになっているはずだったのだ。
「小田島の祥一郎さんは責任感の強い人でね、出征する前に結婚できたのだけれど、私がやもめになったら気の毒だと言って、結納を交わしただけで出ていかれたの。 後には弟がいるから、跡継ぎは大丈夫だと言われてね。 そのとき洋二郎さんはまだ数えの八歳だったわ」
 また、はい、と言いかけて、円香が他の相槌を考えていると、蔦野はしんみりと言った。
「あなたを見つけて嬉しかったわ。 お宅も残っているのはあなた一人なんですってね」
 円香はゆっくりうなずいた。 悲しくなって喉が詰まったため、はい、と言わないですんだ。
「それで、身勝手なんだけれど、私がいなくなったあと、この土地に住んでもらえたらなあと考えたの。 ここは交通の便がいいし、住むのにいいところよ」
「でも、五十坪なんて立派な宅地を!」
「四八坪よ。 正確には四八・六二坪」
 蔦野は几帳面に訂正した。
「敷地をまっすぐにしたくて、父が戦前に買い取ったの。 すぐ横に三五坪の土地もあるわ。 そちらは上矢〔じょうや〕さん、ほらさっきあなたを案内してきてくれた人のご一家だけど、そのお宅にお残しするつもりなの。 地続きだから」


 円香は固まった。 ジョーヤさんに? あのイケメンの隣?
 なかなかしっかりしている蔦野は、計画を細かく話し始めた。
「あのね、小規模宅地という決まりがあってね、五十坪以下だと固定資産税が安くなるの。 でも土地だけだと相続税がかかって大変だから、それとお家の建築費も含めて、七千万おつけするわ」
 な……ななせんまん!
 円香はアゴが外れそうになった。      






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