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表紙


3 好みなのに


 大垣家の玄関へ軽やかに駆け込んでいくオダジママドカの後ろ姿を、保は黙って見送った。
 それからスーパーの小袋をダラッと下げ、うなだれ気味に踵を返して、自宅へ向かった。


 あんなにすてきな子に会ったのは、初めてだった。
 ついでに言えば、顔を見たとたんにビビッと来たのも、生まれて初めての経験だった。
 少しでも長く一緒にいたくて、なめくじ並みにゆっくり歩いたが、その間も、この小汚い格好した男がなにノロノロしてるんだ、と思われてるにちがいないと、気が気ではなかった。
 ふだんはこんな服装で街には出ない。 本当だ。 金曜が残業で、寝ても寝ても頭が重く、やっと布団から抜け出したときはやたら腹がすいていて、パンのことしか考えつかなかった。 だからそのまま、サンダルを突っかけて出てきてしまった。 つまり、今着ている古着はパジャマ代わりなのだ。


 サイテー、と自分をののしりながら、保が塀の横を引き返していると、背後から軽い足音が駆けてきた。 どっぷり落ち込んでいる保は振り向かなかった。 自分には関係ないと思い込んでいた。


 すると足音は前に回りこんだ。 そして、目の前にかわいい顔が立ちはだかったので、保は口を半分開けたまま足を止めた。
 肩で息をしながら、オダジママドカは謝った。
「すいませんお礼言わないで行っちゃって。 お世話になりました」
 そして、ニッと笑ってまた駆け戻っていった。


 どうやって家へ帰り着いたかわからない。 気づくとテラスに土足で立っていて、弟の斉〔ひとし〕に怒られた。
「おいサンダル脱げよ〜。 母ちゃんがスリッパ汚れるって言ってんだろ」
 マドカちゃんの顔を思い浮かべてボーッとしていた保は、上の空でサンダルを片方ずつ下へ脱ぎ飛ばし、裸足で弟の部屋へ侵入した。 斉はあわててベッドに起き上がると、唾を飛ばして怒鳴った。
「な、なんだよ。 やる気か?」
 今偉そうに注意したので、やり返しに来たと思ったらしい。 それで保は我に返り、ぼんやり弟を見返した。
「あ、まちがった」
 今更テラスに出てリビングに入りなおすのは面倒だ。 そのまま弟の部屋を突っ切ってドアを開けたとたん、背中に枕をぶつけられた。
「ねぼけてんの? 勝手に入ってくんな」
 今度は保も少しシャンとして、やり返した。
「うっせーな。 通っただけだろ。 中坊みたいにガタガタ言うな」
「ちゃんとドア閉めろよ」
 そう言われたから、わざと隙間を開けたままにした。 するとベッドから降りてくる音がして、泣き言が聞こえた。
「ぜんぶ開けっ放しだよ。 外と廊下で風吹き抜けてるやんか。 もう思いやりのかけらもない」
 保はグチを聞き流し、両腕を上げてあくびを連発した後、胸を掻きながらリビングに入った。
 すると母が楽しそうに掃除機を出してくるところだった。 そこで長男と目が合い、びっくりした顔になった。
「どした? こんな中途半端な時間に。 お昼まで起きてこないと思ったから、何もないよ」
 保はブルーの袋をかかげてみせた。
「自分で買った。 そうだと思ったから」
 母の美恵〔みえ〕は安心して笑顔になった。 いつ見ても明るい。 そして若い。 大きな息子が二人いるとは思えないと、よく言われて喜んでいる母だ。
「じゃ、掃除は後回し。 何買ってきた?」
 母は覗き込んで、さっと菓子袋を一つ取った。 保は四袋買ってきたので慌てない。 父親は接待で夜まで帰ってこないため抜いて、残りの家族の分を入れて買ったのだが、斉は文句を言ったからやらないことにした。 だから三袋が自分の取り分だ。


 午前中のコーヒーブレークとしゃれていると、斉がぼそっと入ってきて、結局パンを一つ取られた。 食べながらスマホでゲームしている。 保がお代わりのコーヒーにクリームを入れて、模様を切る練習をしていると、母が二人の子を見比べて言った。
「やっぱ一人は女の子が欲しかったな。 こう無口だと、ついそう思う」
「いつもは結構、兄イとしゃべってんじゃん」
 画面から目を離さずに、斉が答えた。 そして足先で保を突っついた。
「ほら、なんか話題」
 もう機嫌は直ったらしい。 評判のパンのおかげか。
 不意に保の口が暴走し、勝手にしゃべりだした。 心のどこかが誰かにこの感動を聞いてもらいたかったにちがいない。
「大垣さんちに客が来た」
 母は耳をそばだてた。
「えっ?」
 弟も顔を上げて、高い声を出した。
「ええっ?」
「そんなに驚くことじゃない」
 保は二つ目のパンを半分に割り、さらに四分の一にした。
「若い女の子だった」
「はあん」
 すぐに斉がにやにやし始めた。
「きれいな?」
 とたんに保は後悔した。 おれのバカ、なんでこいつにしゃべるんだ。
「てより、かわいい」
 いや美人だ、と心は言い張ったが、保は耳を貸さなかった。
 







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