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アンコール!  130 七年の後に



 夏の盛りだった。 よく冷えたレモネードをボウルに入れて外へ運ばせたヘレナは、三年前に移ったこの屋敷で厨房を帝王のように支配しているシェフのアランベールを説得して、すぐチョコレートアイスクリームを出させるのにどのぐらいかかるか、心の中で計算していた。
 現在、主な生活拠点にしているこの広い邸宅は、サリー州の南部にある。 ヘレナの大好きな栗の木屋敷は、今でもロンドンへ行く途中で訪れ、しばらく滞在することもあるが、なにぶん狭くなりすぎてしまった。 それでハリーが四箇所ある所有地の中からもっとも大きく、首都に近くて気候も温暖なサリーの住居を選び、少し建て増して本宅にしたのだった。
 その決定はうまくいった。 栗の木屋敷で家政の予行演習をしたヘレナは、部屋数が六十もある新居でも、家政婦のマーガトロイド夫人と協力して上手に仕切ることができるようになっていた。 だからハリーは安心してロンドンに通い、国会議員としての職務を果たすことができた。
 十年前なら一時間以上かかった道のりだが、今では鉄道網の発達で半時間足らずで行き来できる。 便利になった反面、仕事が増えてもこなせるので、人々は以前より気ぜわしくなっていた。


 その日も、午後から親しい人たちを招いて園遊会を催すという予定が一ヶ月前からできていたのに、投資関係の話し合いが長引いて、ハリーはなかなか帰れなかった。 それでヘレナは館の女主人として、次々訪れる客たちを出迎えて挨拶するという気を遣う仕事を、一人で受け持った。
 もともと女優で人に接するのに慣れていたから、そんなに苦労ではなかった。 それに今日は、ブライトン近郊に住むラルストン伯爵夫妻、つまりトマスとヴァレリーが久しぶりに来てくれる。 それが何より嬉しくて、ヘレナは二十人ほど招いた客たちに惜しみなく笑顔を振りまいた。
 園遊会への招待といっても一日で終るわけではない。 敷地には深い森や三日月形の湖が点在し、短い夏の盛りを楽しめるテニスコートやボート乗り場が揃っていて、裏手には小さな劇場まであった。 客たちはここで週末をゆったり過ごし、ピクニックやスポーツ、弓の競技会などを楽しめるのだ。
 ヘレナは三階の子供部屋を特に念入りに整備しておいた。 客のうち、少なくとも五組は子供連れで訪れるはずだ。 ヴァレリーの双子は掟破りなことに、生まれた直後から愛らしかった。 去年ブライトンを訪ねたときには金色とこげ茶色の巻き毛をした天使のようだったので、今はどれほど可愛くなっていることだろう。 楽しみだった。


 午後の一時半になって、トマス・ウェイクフィールドとヴァレリー、そして六歳の双子プリシラとアーサーが、迎えの馬車に乗って到着した。 イギリスでは19世紀前半から、すでに蒸気で動くバスが使われ、街中を走っていたが、地方の道路では農夫が家畜に害があると反対し、速度制限が課せられたため、今でも馬車のほうがよく使われていた。
 馬車が止まると、まずトマスがさっと下りてきて、従僕の手を借りずにきゃしゃな妻を軽々と抱き下ろした。 ヘレナはヴァレリーの元気そうな顔を見るやいなや、少女に戻ったように駆け出して迎えに行った。
「ヴァレリー! いらっしゃい!」
 ヴァレリーの色白な頬も紅潮し、自分から友に抱きついて肩に顔を埋めた。
「ヘレナ、ヘレナ! 逢いたかったわ!」
 トマスが微笑みながらプリシラを抱き取っている間に、男の子のアーサーは父の腕をかいくぐって馬車から飛び降りた。 カールした髪が風に揺れて目にかかるのを、口をとがらせて吹き払っている。 教会の壁画に描かれたキューピッドのような顔をしているのに、その仕草はいかにもいたずらっぽかった。
 一時間遅れで生まれた弟とはちがい、金髪のプリシラは生まれながらのレディだった。 父に優しく地面に降ろしてもらうと、フリルのついたワンピースの裾をそっと整え、両手を優雅に握りあわせて、母とヘレナおばさまとの抱擁を静かに眺めていた。





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