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アンコール!  129 幸せな夕べ



 それからどうやって階段を昇りきったか、後になって考えてもハリーには思いだせなかった。
 気づくと既にジーンと赤ん坊のすぐ前にいた。 おそるおそる見つめる先には、ピンクと紫色のまだらで腫れぼったい目をした、ふにゃふにゃの生き物がいる。 見た目かわいいとは言いがたかったのに、不意に感動でハリーの視界が曇った。
 少なくともここ十年は泣いた記憶がなかった。 涙の薄膜を通して眺める息子の顔は、淡い光が四方八方に散らばって、まるで天の祝福を浴びているように見えた。
 ふるえる溜息をつくと、ハリーはいきんで泣いている赤ん坊の小さな口に見とれた。
「本当に元気そうだ」
「そうですとも」
 自分が産んだかのように、ジーンは豊かな胸を反り返らせて自慢した。
「それに大きくて立派です。 奥様は少しご苦労なさいましたが、がんばって無事に出産されました」
 苦労、という言葉で、ハリーは青くなった。 そして、はじかれたようにジーンの横を通り抜けると、寝室に飛び込んだ。


 ベッドの上は産婆たちの手で既に片付けられ、ヘレナは新しい敷布に気持ちよく横たわっていた。 さすがにいつもの元気はないが、顔色はいい。 ほっとしたハリーは三歩で駆けつけたものの、また膝が頼りなくなって、ベッドの脇でよろめき座りこむと、差し出された妻の手を握りしめ、口づけした後、顔に押し当てた。
「無事でよかった!」
 ヘレナは疲れきっていたが、何とか微笑もうとした。
「大変だったけど、ミークさん(産婆)に言わせると安産だそうよ。 もうあの子を見た?」
 くぐもった声で、ハリーは真剣に答えた。
「見たよ。 すごく元気そうだ。 君は僕の誇りだよ、愛しい奥さん。 そして、ロンデール男爵ハロルド・トマス・デヴィッド・スティーヴン坊やも」
 ハリーとヘレナは、産み月になってから何度も子供の未来について話し合い、名前も二人で考えていた。 男の子なら父の名を継がせ、女の子ならヘレンと名づける。 ミドルネームには親友のトマス夫妻の名をそれぞれつける予定だった。
 そこへジーンが戻ってきて、これからはたぶんトミーと呼ばれる跡継ぎをヘレナに返した。 ヘレナはハリーに体を起こしてもらい、ぐずっている赤ん坊に乳をふくませた。 ハリーは乳母の手配をすませていたが、庶民として育ったヘレナは、少なくとも一ヶ月は自分の手で育てると夫を説得していた。
 幸いなことに、ヘレナは健康で栄養状態もいいため、乳の出はよかった。 そして予定日より十日以上早く生まれたにもかかわらず、子供は成熟度が高く、すぐ要領を飲み込んで上手に吸えるようになった。
 ミーク夫人が手を拭きながら現れ、感心した様子で語りかけた。
「お上手です。 半日ぐらいかかるお母さんが多いんですが」
「ありがとう」
 ヘレナは産婆にも笑顔を向け、またハリーに視線を戻した。
「なんとなく男の子だとわかっていたわ。 最初が男でよかった。 これで跡継ぎができたから、次からは何人でも女の子が産める」
「子供部屋はいくつでも作れるよ」
 ハリーは請け合い、ちょっとおっかなびっくりの手つきで、トミー坊やの産毛〔うぶげ〕のような金髪に軽く触れた。
「髪は君にそっくりだ」
「大きくなったら色が濃くなるでしょうから、きっとあなたに似るわ。 そうなってほしい」
 それからヘレナは、ハリーの当惑ぎみの表情を見て笑い出した。
「顔のことは言わないのね。 私から見たら今でも天使のようにかわいいけど、生まれたばかりだとまだ本当の姿じゃないわ。 ほら、猫だってネズミだって、生まれたてはくしゃくしゃでしょう?  一週間待って。 驚くわよ、赤ちゃんってこんなに愛らしかったんだって」
 内心、この器量だと男の子でよかった、と考えていたハリーは、そっと胸を撫でおろした。
 何はともあれ、母子ともに無事だっただけで天にも上る心地だった。 赤ん坊が満足した後、ヘレナが眠りについたのを見届けてから、ハリーは階下に下り、書斎に行って紋章入りの紙を出して、息子の誕生通知の手紙を書きはじめた。 ペンを走らせながら、無意識にハミングが口をついて出た。






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