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アンコール!  127 夏が過ぎて



 それから四ヶ月、ヘレナは郊外の栗の木屋敷で心安らかな日々を送った。
 いろいろな意味で、こんなに落ち着いて満ち足りた生活を送ったのは生まれて初めてだった。 気候のいい夏の間、ヘレナは家政婦のジーンが作っている野菜畑の周囲にハーブの縁取りを作って虫除けにし、それにかこつけて横の空いた場所に球根を植え、種を播いた。
 ダリアとグラジオラスは三ヶ月ほどで美しく咲き始めた。 どちらもパリの街中ではあまり見かけない花で、ヘレナは嬉しくて毎朝小さな花壇を手入れし、グラジオラスがあっという間に盛りを過ぎてしおれていくのを残念がった。
 だがダリアは忠実に咲き続け、どんどん巨大に枝を伸ばした。 すると下男のジャックが枯れ枝で上手に支柱を作ってくれ、ヘレナは大いに感謝した。


 ハリーは用事で週に二、三度ロンドンに出ていくが、最小限留まるだけで、たいてい夕方には羽が生えたように戻ってきた。 そしてヘレナや給仕にいそしむジーンに、その日にあったことを話してきかせる。 だからヘレナは街に行かなくても、話の上手な夫の口から、それに彼が持ち帰ってくる新聞の束から、時の情勢や巷の噂話を知ることができた。
 初夏までは、ヘレナ自身もハリーに送ってもらってロンドンに行き、買い物をしたりヴァレリーを尋ねたりしたし、じぶんの店にも半月おきに顔を出した。 だが店の隣人で、ヘレナに思いを寄せているグレアム・ハサウェイと久しぶりに顔を合わせてから、行くのが辛くなった。 彼女が身重だと気づいて、グレアムが求婚してきたのだ。 女手ひとつで子供を育てるのは大変だ、と、彼は眼を輝かせて頼んだ。
 こんないい人を、私はあざむいている。 これでは変装していたハリーを責められない。
 そう悟ったヘレナは、けなげに店を守って繁盛させているキャスを店主代理にして、全面的に任せることにした。 ただ手仕事は好きなので、商品の一部は変わらず自分で作って出品した。 どれもよく売れているということだった。
 求婚をことわったとき、グレアムは落ち込んでいた。 幸せな日々の中で、彼を思い出すと胸が痛む。 だがハリーにはプロポーズのことは話せなかった。 彼は結婚以来、驚いたことに嫉妬深くなってしまって、地元のささやかなダンスパーティーでヘレナが踊った相手を睨んだという評判が立っていた。


 たまに冷たい風が吹くようになり、秋の気配がただよいはじめた八月の末、ヘレナは産気づいた。
 真っ先に気がついたのは、子供が三人いるジーンだった。 昼食を取った二時間後で、腹痛を軽い食中毒ではないかと思ったヘレナは、料理人も兼ねているジーンに悪いと思って黙っていたが、次第に痛む間隔が狭まってきたため、重症ではないかと心配になった。
 顔をしかめて居間の椅子でお腹を押さえているところへ、ジーンが急いでやってきて尋ねた。
「弱い痛みがずっと続きますか? それとも少しの間強く痛んで、しばらく止みますか?」
 その真剣な口調で、ヘレナは不意に悟った。
「痛んだり、普通に戻ったりしているわ。 生まれるのね!」
「そうだと思います」
 それからジーンは安心させるように明るい笑顔になり、炉棚に載った時計を下ろしてきて、ヘレナの傍の脇机に置いた。
「これで計ってみてください。 痛みが始まって治まり、また次の痛みが来るまで、何分ぐらいかかるか」
 ヘレナはすぐうなずき、痛みが薄らぐのを待った。
 やがて平常に戻ると、今度は胸がどきどきしてきた。 いよいよだ! ハリーが午前中から外出しているのが心細かった。
 だめよ、そんな弱気じゃ、と、ヘレナは自分を叱った。 前は何でも一人でする覚悟ができていたのに、結婚して甘やかされて、すっかりハリーに頼ってしまっている。 でもお産は自分の力でするものだ。 赤ちゃんは生まれたがっているのだから、二人でがんばろう! そう思うと、ようやく肝が据わった。






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