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アンコール!  119 春の結婚式



 急な挙式に間に合ったのは、というより、内輪の式に呼んでもらえたのは、サイラスとラルストン伯爵夫妻だけだった。
 だからトマスたちが到着した今、もう開始を遅らせる必要はなかった。 ハリーは窓際の椅子に座ってのんびり紅茶を飲んでいたウェントワース神父をうながし、すぐ式を始めることにした。
 目を赤くしたヴァレリーが隣室に通じる扉のところまでヘレナを連れて来て、サイラスに委〔ゆだ〕ねた。 彼は孫娘のヴァレリーに次いで今回も、花嫁を花婿に渡す役目を買ってでていた。
 ヴェールで顔を覆ったヘレナに腕を貸してゆっくりと歩きながら、サイラスがほとんど口を動かさずに囁いた。
「君の店について、ハリーと話がついたかね?」
 ヘレナはすぐ、楽しげに答えた。
「ええ、私が持ち主のままでいいと言ってくれたわ。 もう店の上階に住むわけにはいかないけれど、週に二、三回はホリー・クレメンスと名乗って、店で品物を売ってもかまわないって」
「女優の本領発揮だな。 ゆめゆめ子爵夫人と気づかれないようにしなさいよ」
「誰も想像しないでしょう」
 ヘレナはヴェールの下で小さい笑い声を上げた。


 普段と変わらないサイラスのおかげで、ヘレナの緊張は和らいだ。 実は鏡で自分の花嫁姿を見たとたん、急に脚ががくがくして、膝が頼りなくなっていたのだ。
 私がハリーの妻になる。 この私が!
 血筋こそ侯爵の末裔かもしれないが、実際はフランスの下町で貧しく育ち、ごく基本的な躾〔しつけ〕しか知らない小娘にすぎないのに、こんな立派な屋敷の女あるじになるなんて。
 確かにヴァレリーも似たような環境だけれど、彼女にはちゃんとした家庭があったし、祖父のサイラスに訊けば大抵のことは教えてくれる。 私のような天涯孤独の身の上じゃない。
 本当のところ、店までやめさせられたらどうしようと思った。 昨夜、深夜に目が覚めたとき、いくらかおじけづいて、逃げ帰りたいとさえ考えた。 でも、横でぐっすり眠っているハリーの胸は温かく頼り甲斐があったし、今朝思い切って尋ねたら、君の努力で作った店だ、何も退屈な上流婦人になる必要はない、と言ってくれて、いくらか心が落ち着いた。
 気を取り直すと、もう悩む暇もなくヘレナはハリーの隣にいた。 ハリーは彼女をじっと見つめていた。 神父が発する誓いの言葉を繰り返す間、片時も目を離さず、ただ彼女だけを。
 トマスから指輪を受け取るとき右を振り向いたが、すぐ首を戻して、ハリーはヘレナの手を取った。 そして左の薬指にそっと嵌めると、ヴェールに手をかけて上に持ち上げ、後ろに流した。
 ヘレナの涙は、もう乾いていた。 未来を怖がることはない。 過去を引きずるより、大好きな人とこうして手を取り合って、ひとつずつ現在を築いていこう。
 二人が顔を寄せ合って優しく唇を重ねるのを、トマスとヴァレリー、それにサイラスが、一かたまりになって、感無量で眺めていた。






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