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アンコール!  116 真の気持ち



 その瞬間、ヘレナの見せかけは崩れた。 そして苦しさのあまり、つい口走った。
「子供のことは心配なのに、私はどうでもいいの?」
 ハリーは激しく振り返り、ヘレナの眼に涙が溢れているのを見た。
 肩に引っかけた鞄が音を立てて落ちた。 ハリーは一瞬でヘレナの傍に駆け戻ると、夢中で抱きしめた。


 数限りなくキスしあって、互いに触れあって、相手が本当に腕の中にいるのを確かめあった。 それでも離れていた間の虚しさがなかなか埋めきれず、終いにバランスを失って、抱きついたまま床に崩れ落ちてしまった。
 ピンが外れて一筋ほどけた濃い金髪を、ハリーは指ですくい、目を閉じて口づけた。
「探したんだ。 トマスを家へ送り届けた後、血眼〔ちまなこ〕になってロンドン中を。 でも君とお父さんは見つからなかった。 やっと逢えたのは、君がグロースター劇団に引き抜かれてオルリック劇場に出演した日だった」
 不運なヴァレリーが、私と間違われて酸をかけられた、あの日。
 ヘレナはハリーの肩にぐったりもたれたまま、運命の不思議を噛みしめていた。
「ロンドンを探しても見つからないわけだ。 君達はランカシャーへ旅してたんだね。
 そして今度、また君を失って、ロンドンから出る馬車や鉄道をしらみつぶしに探し回っていた。 当の君は、ここで店をやっていたというのに」
「私を探したの?」
「当たり前じゃないか!」
 ハリーの声が険しくなった。
「役者は浮き草稼業だ。 君は賢いが、それでも詐欺師の口車に乗せられて、いい役につけてやると言われて誘拐されることだって考えられる。 途中でアレンバーグのような連中に見つかって襲われることもあり得る」
 声が次第に低くなり、かすれた。
「それ以上に、ただ会いたかった。 取り戻したかったんだ、君を」
 ええ、私はあなたのものよ。
 口には出さずに、ヘレナは心の中だけで呟いた。 もう、彼がいなくてもやっていけるふりをすることはできない。 彼を他の女に取られるのは、絶対に嫌だ。
 妻にしてもらうしかない。 まだ彼の情熱が続いているうちに。
 ヘレナはハリーのポケットに手を入れて、さっきの手紙を引き出した。
「やっぱり侯爵に会いに行くわ。 そして正式な孫だと認めてもらって、持参金も出してもらう。 私……お腹の子を婚外子にしたくない。 あなただって、ただの元女優の商売人ならともかく、侯爵の孫ならそんなに……」
 ヘレナは最後まで言い切れなかった。 ハリーの手が手紙を鷲掴みにして、床に投げ捨てたからだ。
「さっき行かないと言っただろう? 行くなよ! 元女優が何だ! 君が真面目に働いていたことは、僕が誰よりよく知ってる」
 次いでハリーはヘレナの顔を両手で挟み、まばたきもせず見つめた。
「ずっと言いたかった。 妻になってくれないかと。 ハンクという引け目がなかったら、『ロミオとジュリエット』のアンコールで君を見つけた夜に申し込んでいた。
 身分も持参金もクソくらえだ。 汚い言葉を使って悪いが、君はあのハンクを許してくれるほど心が広いんだ。 我慢してくれるよね」
 そしてもう一度、骨がきしむほどヘレナを抱きしめた。
 ヘレナはあっけに取られ、少しの間ぼうっとしていた。
 やがて潮が満ちるように、幸福感がじわじわと湧き上がってきた。 ハリーは私を低く見ていたんじゃない。 今のままで、このままで好きだと言ってくれてるんだ。
 耳元で祈るような囁きが聞こえた。
「うんと言ってくれ。 結婚特別許可証を二ヶ月前に取ってあるんだ。 破らないでよかったよ。 できればすぐに式を挙げたい。 でも君が豪華な宴を望むなら……」
「そんなの要らない!」
 ヘレナは叫び、伸び上がってハリーの首筋にキスした。
「喜んであなたの妻になります。 だから私のハンクになって!」  





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