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アンコール!  115 最後の願い



 ヘレナの父は母を誰よりも愛していた。 しかし、実家の父親である侯爵にも強い愛着を持っていた。 中年になってから思いがけなく恵まれた子を、侯爵は眼の中に入れても痛くないほど可愛がって育てたらしい。 それなのに駆け落ちで手のひらを返すように援助を打ち切られて、父は大変なショックを受けた。 なにしろ絶縁の手紙さえ来なかったのだから。
「父は侯爵に親不孝を詫びたかったらしいの。 でも、できないままで終ってしまった」
「侯爵閣下も息子さんに会いたかったと言っておられた。 彼から手紙を預かってきたんだ」
 ヘレナは、ぎょっとなった。
「私に?」
「そうだ」
 肩に提げていた布袋から、ハリーは封蝋で閉じた手紙を出して、ヘレナに渡した。
 ヘレナは巨大な虫でも見るような目つきで上等な紙を見つめ、ハリーが小さなテーブルに置いても手を出さなかった。
 ハリーは我慢強く言った。
「ヴィンス・ギルフォードは年不相応な贅沢のせいで、早死にした。 侯爵に残された直系の親族は、君だけなんだ」
 ヘレナは手紙を凝視したまま、細い声で尋ねた。
「ヴィンスには子供はいないの?」
 ハリーの口元が、わずかに上がった。
「結婚もしていない。 もうじき四十だったが、遊びに忙しかったんだろう」
 そんなだらしない男のせいで、父は落ち込んだまま死んでしまった。 そして私も追い回されて、怖い目に遭った。 そんな男の使い込みのせいで。
 腹が立つのと虚しいのとで、ヘレナは叫びだしたくなった。 テーブルを叩くか、コップを叩きつけて壊すか、何でもいい。 怒りを発散してしまいたかった。
 さもないと、前にじっと立っているハリーに抱きついて、わっと泣き出してしまいそうだった。
 代わりに必死に自分を抑えて、ヘレナは囁くように言った。
「わざわざランカシャーまで調べに行ったのね?」
 ハリーは固い表情になって、足を踏みかえた。
「僕だけは君の呼び名を聞いていたから、ベル。 そしてお父さんはギルフォードと名乗ったし」
 ヘレナはうつむいた。 三年前のあの日、密輸船がテムズ川に入ってロンドンの船着場に到着すると、すぐハンクは船倉の扉を開けて、こっそり荷物の陰から出してくれた。 他の連中が荷降ろしにかかりきっている隙に、父が手を掴んで船の艫〔とも〕から降ろし、親子で一目散に逃げたのだ。
 父は不機嫌で、悲しそうだった。 でもヘレナを非難したり叱ったりすることは、まったくなかった。
「父は私を助けたかったのよ。 パリで借金がかさんで、娘で払えと脅されたから、夜逃げしたの。 奴らはしつっこく追ってきた。 あなたの船は、本当の助け舟だったの」
 ハリーはやりきれない様子で、ぼさぼさになった髪に手を入れた。
「不潔で汗まみれの乱暴者ぞろいだったのに?」
 ヘレナは声を立てて笑い出した。
「それこそ仲間だわ! 私たち何日も野宿したのよ。 汚いのはお互い様」
 ハリーは笑わなかった。 ただ食い入るようにヘレナを見つめ、ぽつりと言った。
「憎まれていると思っていた。 まさか友達のように迎えてくれるとは」
「友達?」
 ヘレナの顎が強ばった。
「あなたは初めての人だったのよ。 ただの友達より、ずっと深い気持ちだったわ。 確かに見た目はぱっとしなかったけど、中身は私の夢見ていたとおりだった。 強くて筋が通っていて、指導力があって」
 でも私のものじゃなかったし、そうなる見込みもなかったんだ。 そう思うと心が焼けるほど痛かった。
 ヘレナは手紙を掴み、ハリーに差し出した。
「侯爵のところには二度と行かないわ。 彼が後悔しているのはわかるけど、結局人まかせにして母を認めず、甥のやってることに気づかなかったいいかげんな人だもの。
 もうとっくに過去は捨てたの。 ここで好きな店をやって生きていくわ」
 ハリーはゆっくり息を吐いた。 そして逆らわずに手紙を受け取り、上着のポケットに収めた。
 黙って出ていこうとして、戸口で足が止まった。 柱に手を置いてうなだれるとすぐ、呟きが聞こえた。
「君の決断を尊重する。 ただ、子供を見守るのは許してくれないか?」






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