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アンコール!  114 変装を解く



 高価なハンカチがハリーのものと気づいた瞬間、ヘレナの頭をよぎったのは、とんでもない惨劇だった。
 もし……もしハリーが誰かから、たとえばサイラスからこの店のありかを聞いて訪ねてきて、ハンクに目をつけられたのだとしたら。 ハリーはいつもきちんとしているから、金持ちだと一目でわかってしまう。 それでハンクがいい獲物だと思ってハリーを襲い、持ち物を剥ぎ取ったのなら……!
 恐ろしい想像で息が止まりそうになっているヘレナの前に、汚れた帽子が置かれた。 それからニカワのついた髭も。
 髭?
 ヘレナの口が、ぽっかりと開いた。 おそるおそる目を上げると、ハンクが頬の傷を静かにむしり取っているところだった。
 こうしてヘレナは、ハンクとして知っていた男の素顔と、初めて向き合った。


 ハリーは喉に巻いていたよれよれのスカーフを外し、赤銅色に塗った肌を拭いながら、疲れた声で言った。
「三年前は本当に日焼けしていた。 しばらくスペインに行っていたから」
 ヘレナは殴られたようになって、目を閉じた。 前にいる男を見たくなかった。 彼はもうハンクでもハリーでもなく、見知らぬ冷たい影に思えた。
「全部、嘘だったのね」
 ハリーが激しく身動きしたらしく、粗末な服ががさがさと音を立てるのが聞こえた。
「ちがう」
「密輸業者なんていなかった。 あれは友達と悪ふざけしてたの?」
「そうじゃない。 あのときは任務だったんだ! トマスがスパイ容疑で捕まって、尋問のためにサン・シモン城の地下牢に入れられた。 尋問といっても拷問で、口を割った後は殺される。 ぎりぎりで助け出して、あの船でこっそりイギリスに連れ帰る手はずだった」
 胸が割れたような痛みが、少し楽になった。 ヘレナは重い瞼を開いたが、ハリーには目を向けなかった。
「スパイ? 二人とも?」
「そうだ。 僕はもう辞めたが、トマスは続けている。 いや、続けていた。 彼は大胆で、向こう見ずだった。 死んでもいいと、心のどこかで思っていたんだろう。 だが今はちがう。 大事な人ができたからな。 許可が出たら、すぐ辞職するはずだ」
「なんてこと」
 ヘレナはテーブルに転がっている付け髭から視線を外せずに、ぼんやり呟いた。 ハリーは変装して任務についていた。 そして自分は幻に初恋を捧げたのだ。
 ヘレナが立ち上がったのを見て、ハリーも腰を浮かせた。
「取り返しがつかないのは、わかっていた。 結果的に君をだまして、純真な少女時代を台なしにした。 あやまってもあやまりきれない」
 ヘレナは乾いた笑い声を立てそうになった。 純真な少女時代? 幼いときに母を失って以来、そんな時代なんてあったためしがない。 生きがいだった母に早死にされて、父は芯のない人間になってしまった。 だからヘレナは必死に頭を使い、父を引っ張って生き延びてきた。 でも本当は、いつも心細かった。 相談できる人、信じられる人が欲しかった。
 四角のテーブルを挟んで、二人は向かい合って立つ形になった。 見慣れた優雅なハリーより、ハンクになった彼のほうが大柄に見え、捨てばちな雰囲気があって、ヘレナは圧倒されていた。
 また口を開く前に、ハリーの喉は大きく上下した。
「君の父上の実家に行ってきたよ」
 反射的にヘレナは後ずさった。 三年前の屈辱が大きくよみがえった。
「やめて!」
 だがハリーは聞こえなかったように話を続けた。
「君の知らなかったことが、いろいろわかった。 ギルフォードの当主のウィンドメア侯爵は、お父さんを見捨てていなかった。 駆け落ちの後もフランスの銀行に仕送りして、生活を補助しようとしていたんだ。
 だが、通風で足を悪くして、甥に手続きを頼んだのがまずかった。 金遣いの荒い甥は、つい魔がさして、頼まれた小切手を使い込んでしまった」
 驚きに負けて、ヘレナはさっと顔を上げ、ハリーと目を合わせた。 いつもは茶目っ気のある彼の眼が、暗く鈍い光を放って見つめ返した。
「一度やると、もう止められない。 白状することもできなかった。 伯父に見捨てられて館を追い出されるかもしれないから。 それで、思いがけず帰ってきた君達をあわてて放り出したんだ」
「お父さんの諦めがよすぎたのね。 屋敷に忍び込んででも、侯爵に会えばよかったんだわ」
 ヘレナは、ほうっと大きく息を吐いた。 





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