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アンコール!  110 悲しい決断



 続いて、サイラスはこめかみを揉むような仕草を見せ、何かを思い出そうとした。
「ウィンドメア……前に調べたことがある名前だ。 リヴァプールの郊外に住んでいるんじゃなかったかね?」
「そうです、ランカシャー州の富豪貴族です」
 トマスが気の進まない様子で説明した。 事情に詳しくない女性二人は、なぜ彼らの口が重くなったか、よくわからなかった。
 空咳をした後、トマスは情報の後半に移った。
「当主のクリスチャン卿は通風をわずらっていて、足が痛むと何日も寝室から出てこないそうだ。 だから孫のヴィンスが事実上、屋敷を取り仕切っていた。 君のお父さんを追い返したのはヴィンスで、クリスチャン卿ではないと思う」
「それはどうかしら」
 ヘレナは冷めた口調で答えた。 もう長い間、できるだけ人に期待しないで生きることにしてきた。 特に尊大な親戚には。
「どっちみち、もうランカシャーに行くつもりはないわ。 両親の結婚証明書は手元にあるけれど、ウィンドメアの血筋だなんて言いふらす気もない。 幸運とサイラスさんの後押しのおかげで、働いて生きていけるようになった。 この暮らしを大事にしていきたいの」
 トマスが息を呑み、素早くサイラスを振り返った。
「後押し? ヘレナの行方を初めから知ってたんですか? どうしてハリーに教えてやらなかったんです?」
 サイラスは慌てず、ゆっくり食卓に手を置くと、断固とした口調で答えた。
「ハムデンは筋を通さなかった。 彼にどんな事情があるか知らないが、好きな女性を日陰の身にするような男には、愛を語る資格はない」
 二人の応酬を聞きながら、ヘレナは体を硬くしていた。 サイラスはハリーを貴族名で呼んだ。 しかも呼び捨てにした。 つまり、トマスだけでなくハリーも彼の知り合いということだ。 大金持ちでも身分は平民のサイラスなのに、なぜ上流社会にまで謎の人脈があるのか。
 トマスの口が一度開き、また閉じた。 明かしたくても明かせない友達の秘密に、いらいらして髪をかきむしりかけ、ヴァレリーに見つめられて手を下ろした。
「だから今夜、ハリーを呼ばなかったんですね」
「男女の比率が崩れるしな」
 とぼけた言い方で煙に巻いたサイラスは、表情を穏やかに変えて、ヘレナに視線を移した。
「どうかね。 ハムデン子爵に住まいを教えてもいいかね?」


 反射的に、ヘレナは首を横に振っていた。 子供ができたことを、ハリーに知られたくなかった。 彼の愛がどのぐらい深いか確信がないが、誠実な人柄なのは信じている。 自分の血を分けた命が育っていると知ったら、そしてヘレナがちゃんとした嫡出子だとわかったら、きっと求婚してくれるだろう。
 たとえ、気が進まなくても。
 そんなのは嫌だった。 大事に作り上げた店を捨てて、冷たい結婚生活に閉じ込められるなんて。
 





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