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アンコール!  108 秘密の露見



 この二人がいるということは、トマスの親友のハリーも招かれているのか。
 反射的にヘレナの眼がトマスの背後を探った。 だが、彼についてくるディナージャケットの男性の姿は、どこにもなかった。
 ヘレナのおびえたような視線をたどって、トマスが穏やかに言った。
「ハリーはいないよ。 サイラスが招かなかった」
 ヘレナは小さくうなずき、唇を噛みしめた。 そう聞いて嬉しいのか、がっかりしたのか、自分でもよくわからなかった。


 客が三人だけのささやかな晩餐会は、二階の奥にあるしゃれた食事室で行われた。 ヘレナはもちろん、ヴァレリーとトマスも初めて入る部屋だった。
 サイラスは、この夜のためにわざわざ給仕に慣れた従僕を二人頼んでいた。 どちらも落ち着いた顔立ちの三十そこそこの男達で、手際よく料理を運んできては供する態度が水際立っていた。
 たまたま彼らが二人とも部屋を出た瞬間に、サイラスが前に体を寄せて声を低めた。
「口入れ屋から紹介されたんだ。 少し年を食ったんで、気取り屋の貴族から首にされたそうだ。 今日は試験のようなもので、真面目で口が固いとわかったら本式に採用するつもりだ」
「若い美男ばかり使いたがる連中がいますからね」
 妻の手前、トマスはサイラスにやや距離を置いた態度を取っていた。 二人が防諜関係の仕事で前から組んでいるという事実は、たとえ家族でも知らせないほうがいいのだ。
 それからトマスは、横に座ったヘレナに顔を向けた。
「君が無事でよかった。 そろそろ、いなくなった後どうしていたのか話してくれてもいいんじゃないか?」
 向かいに座ったヴァレリーも身を乗り出すようにして、熱心にヘレナを見つめた。
「お願い。 ヨーロッパに行っている間も毎晩あなたを思い出していたわ」
「本当だよ。 夜の祈りに必ず君の幸せを祈願していたからね」
 胸を打たれて、ヘレナはヴァレリーに微笑みかけた。
「ありがとう。 ここで逢えたから、思い切って言ってしまうわ。 私、他所へ行って芝居をしていたわけじゃないの。 この土地でお店を開いたのよ」
 たちまちヴァレリーの目が真ん丸になった。
「まあ、前から夢見ていた綺麗な飾り物の店?」
「そうなの」
 ヘレナは、表情を変えないで悠々と食べているサイラスをちらりと見ると、話を続けた。
「実はフランスから持ってきた宝石が一つあってね、ずっとお守りにしてきたんだけど、それをサイラスさんに鑑定してもらったら、高値をつけてくれて。 そのお金を元手に店をやることに決めたの。
 ロンドンといっても下町のほうだけど、客筋がよくて安全なところよ。 だいぶお得意さんが増えて、なんとかやっていけるめどがついたところ」
「すごいじゃない」
 ヴァレリーは息を弾ませた。
「でも、それならどうして私に……私達に教えてくれなかったの? 私、仕事がなくなっちゃったから暇を持て余しているのよ。 何かささやかでもお手伝いできたのに。 いえ、これからでもできるわ」
「一生に一度の新婚旅行の最中に? できるときに思い切り楽しまなきゃ。 でも何も言わないで心配させたことは後悔してるわ。 あなたたちに迷惑をかけたくなかったの」
「迷惑だなんて!」
「いえ、本当に危険があったのよ」
 ヘレナはしみじみと言った。
「私、たぶん命を狙われているの。 アレンバーグが死んでも、一難去ってまた一難だわ」
 ナプキンで軽く口を押さえた後、トマスが静かに口を挟んだ。
「それならもう心配ない」
 え? どういう意味?
 フォークを持ったヘレナの手が止まった。 空耳かと思った。
 だが、聞き間違いではなかった。 トマスは続けて、思いもよらない名前を口にした。
「ヴィンス・ギルフォードは先月、心臓発作で急死したそうだ」






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