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アンコール!  103 新しい命に



 時代はすでに十九世紀後半だったが、まだ国境を越える旅は大変で、あちこちを見て回ろうと思うと数ヶ月かかるのはざらだった。
 だから、幸せな新婚夫妻がイギリスに戻ってくるまでの間に、ヘレナは店を整え、うまくクリスマスの前に開店することができて、大売出しの波に乗った。 舞台の衣装係の下請けをしたことがあって、小物作りがうまくてセンスのあるヘレナは、女性客の好みをよく知っていた。 しかもサイラスに助言されて、近くの街を何度も歩き、買い物もして、地域の客層をじっくり調べたため、彼女たちの好みにうまく合わせることができた。
 近くに似たような品揃えの店がなかったことも幸いして、ヘレナの『クレメンス小間物店』は毎週のように売り上げを伸ばし、二月の落ち込みも乗り越えて、春の息吹がただよう三月末には、しっかり利益が出るようになっていた。
 その時分になると、少しずつ胴回りを広げて着続けてきた服が、もう縫い代いっぱいになって使えなくなっていた。 だから、貯金に手をつけずに新しい生地を買えるのはありがたかった。
 身ごもったのを自覚したのは、年が明けてすぐだった。 よく言われるつわりの症状がほとんどなかったため、忙しさにまぎれて、わずかな兆しを見落としていたのだ。
 やたら眠くなるというその兆しも、買い物ラッシュが終わった新年になって、少し暇ができると、元気はつらつになって忘れてしまった。
 そんなとき、仲良くなった近くの靴屋の若奥さんが、ふと口にした。
「ほっとしたわ。 やっとつわりが楽になって」
 ヘレナは驚き、すらっとしたベティの体に思わず目をやった。
「あら、お子さんができたの?」
「そうなの」
 ヘレナをホリー・クレメンスという未亡人だと思っているベティは、妊娠の話を気楽に語った。
「ある朝起きたら、急に船酔いみたいになってたのよ。 何かにつけて吐くし、食べ物の好みが変わるし、おまけに眠くて。 台所仕事をしていて、立ったまま寝てしまったこともあったわ」
 不意にヘレナは息苦しくなった。 最後の兆候に心当たりがある。
 ヘレナが緊張したのに気づかずに、ベティは話し続けた。
「もう少ししたら楽になるよって、お母さんが教えてくれたけど、あまり信じられなかった。 でも本当なのね。 一昨日からケロッと直っちゃった」
 あやうく自分のお腹に手を当てそうになって、ヘレナはあわててハンカチを出してごまかした。
「今日は特に煙の臭いがすごいわね」
「そうね、みんな暖房を焚いているから」
 街中では、ほとんどの人が石炭で暖を取っている。 だからどの家でも煙突から灰色の煙がもくもくと立ちのぼり、汚れた霧となって町を覆っていた。


 世間話を終えて店に戻る途中、ヘレナは自分の気持ちを考えてみた。
 改めてこれまでのことを思い出してみると、思い当たる事実はちゃんとあった。 ただ我慢できるほどわずかだったので、無視していただけだ。
──やっぱり私もそうなんだわ──
  ほぼ確信した後、まず最初に感じたのは、店を早く出してよかったという安心感だった。 小規模だがそれなりの広さのあるちゃんとした店舗だし、努力の甲斐あって客の入りもいい。 子供が一人生まれても、きっと養っていける。
 それから、不思議な喜びと寂しさが入り混じって、心が騒いだ。 ハリーはきっと、永久にこの子の存在を知ることはない……
 だけど彼の子だから頭がいいし、絶対に可愛い顔をして生まれてくるわ── ヘレナはすぐ気を取り直した。 そして、今から手伝いの娘を雇って仕事を教えて、だんだん辛くなってきたときの助けにしようと考えはじめた。






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