表紙 目次 文頭 前頁 次頁
表紙

アンコール!  100 清潔な理由



 ハリーは言葉では答えなかった。 だが、額をガラスに当てて目を固くつぶった動作で、大声で言ったのと同じ結果になった。
 トマスは傷心の友を見て、途方にくれた。 なまじっかな慰めをかけてしまうと、さっきのように失言しそうだ。 だが黙っていると、今度は沈黙に耐えられない。 用心しながら声を出してみた。
「任務の最中だったんだ。 他にどうできた? それに確か、あのときおまえ変装していたはずだ。 ロンドンへ直接帰るのに、素顔を見られちゃまずいから」
「そうだ」
 ハリーは不意にガラス窓から離れ、棚に近づいてグラスと酒瓶を出した。
「左頬に大きな傷を張って、片目が半分ふさがっていた。 おまけに十日前から風呂に入らず、無精ひげもわざと剃らず、まさに海賊そのものだった」
「風呂か…… あのときは、家に戻ってすぐ、食事よりまず皮がむけるほどごしごし洗ったよ」
 トマスがしみじみと思い出した。
「地下牢の臭いが全身にしみついてな。 三日間続けて洗いまくったが、髪の毛がいつまでも汚い気がして、とうとう軍隊式に短く刈っちまった」
「おれもだ。 あの日以来、ちょっとでも体が汗くさいと耐えられなくなった」
 そう呟くと、ハリーはグラスに半分ほど酒をつぎ、一気に飲み干した。
「だが俺の場合、体より心が汚れた気がするんだ。 いくら洗っても、気持ちは楽にならない」
「ヘレナは、お前がその密輸業者だと知っているのか?」
 ハリーはグラスを棚に置き、激しく首を横に振った。
「言えっこない! 一緒に寝ることもできないんだ。 悟られるのが怖くて」
「ああ……」
 トマスは言葉を失い、低く咳払いした。


 そのとき、遠慮がちなノックの音がして、廊下からエリオットが低く呼びかけた。
「そろそろお時間です」
「わかった、今行く」
 ドア越しに返事をしながら、トマスは困ったようにハリーを見た。
「式が始まる。 行かなきゃならない。 おまえも一緒に」
 ハリーはうなずき、ポケットに手を入れて、花婿に渡す指輪を確かめた。
 目を伏せたその顔に、トマスは深い同情を感じて、声を詰まらせた。
「思いつめるなよ。 新婚旅行に出発する前に、おれのルートで手配する。 おまえが辞めた後、新しく入った人探しの名人がいるんだ。 その男が、きっとヘレナを見つけてくれるよ」






表紙 目次 前頁 次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送