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アンコール!  96 手頃な物件



 昨夜のうちに、サイラスのところから使いのゴライアスが来て、調査が少し手間取りそうだから、宿でゆっくり寝ていてくれ、と伝言された。 疲れきっていたヘレナは、その伝言を聞くとすぐ瞼が落ちそうになり、着の身着のままでベッドに転がり込んで、熟睡してしまった。
 それでも目覚めはすっきりとはいかなかった。 日ごろの習慣で、料理を残さずに食べたものの、こなれが悪い気がして立ち上がり、気を紛らすために窓辺に立って、下の道路を見下ろした。
 時計は九時近くになっていて、道には馬車や通行人が行き交っていた。 端のほうでは石蹴りをしている子供の姿も見える。 玄関口の階段を磨いている女中が、立ち上がって頭に被ったキャップがずり落ちるのを直していた。
 この世はヘレナがいなくても、変わりなく日常を送っている。 ハリーはきっと、彼女が突然去っていったのに怒って、早く忘れようとするだろう。 そして親友のヴァレリーは明日結婚し、最愛の夫と共に幸せな生活に入ってしまう。
 もう誰にも必要とされていないと思うと、しんしんと寂しかった。 もともとヘレナは賑やかなのが好きなのだ。 今では助言してくれるのはサイラスだけになったが、彼とは事務の話はしても、のんびり気楽に語り合うなんてことはとてもできない。
 ヘレナは溜息をついた。 こうなったら一日でも早く店を開いて、気さくで働き者の店員を一人雇い、その子や客と楽しくやっていこう。 女には世間話をする仲間が要るんだ。
 朝の日差しが窓から入って、ヘレナを包んだ。 冬の弱い光とはいえ、体はぽかぽか温まる。 やがてまた眠気が襲ってきて、ヘレナは窓枠にもたれて居眠りを始めた。 いくら寝ても寝たりない感じだった。


 しばらくして、ドンドンという音が次第に大きくなって目が開いた。 誰かがドアをノックしていた。
 腕を伸ばそうとすると、ガラスに当たった。 窓辺に座りこんでいたようだ。 きゅうくつな姿勢だったため、肘が痛む。 もみながら立ち上がり、扉に向かった。
 外で待っていたのはゴライアスだった。 眉を寄せてヘレナを眺め、挨拶抜きで訊いてきた。
「気分が悪そうだな。 熱があるか?」
 ヘレナは額に手を当ててみて、首を振った。
「ないわ。 疲れがたまっているんでしょう。 さっきから眠くて」
「朝飯はちゃんと食べたようだな」
 空の皿をテーブルの上に見つけたゴライアスは、やや安心した顔になった。
「じゃ、裏からお屋敷に戻ろう。 ダーモットさんが相談の続きをしたいそうだ」


 戻った事務室は、少し様変わりしていた。 机に銀の盆があって、上に紅茶の道具が一式そろえてあるのと、椅子のうちの二脚がクッションのきいた安楽椅子に代わっているのが、目新しい点だ。
 サイラスは書類棚の前に立って探し物をしていたが、入ってきたヘレナを見ると、すぐ上等な椅子を手で示した。
「それを使ってくれ。 君は今、れっきとした顧客だからな」
 もう事務員ではないということだ。 ヘレナはあいまいな微笑を浮かべて、大きな椅子に近づいた。 すると、サイラスが足を運んで、また椅子を引いてくれた。
「どうぞ」
「どうも」
 なんだか舞台に上がって芝居をしているような気分で、ヘレナは礼儀正しいサイラスに笑いかけた。 大事に扱われるのは戸惑うが、やはり嬉しい。
 以前にも一度だけ、こんなことがあったのを思い出していると、サイラスも続いて椅子に掛けて、てきぱきと新たな書類を取り出した。
「ウィーバー通りに、ちょうどいい店が売りに出ている。 中流階級がよく買い物に行く場所で、小金を持った奥さん連中が主な客筋だ。 前は仕立て屋で、繁盛していたんだが、店主が馬車の事故で亡くなったため、相続人が急いで売りたがっているんだ」
「つまり、値段が時価より安いと?」
「そのとおり。 今月中に売れれば、相場の半分でもいいそうだ」
 ヘレナは思わず、胸の前でぎゅっと両手を握りしめた。
「ぜひその店を見てみたいわ!」
 サイラスも嬉しそうに、大きくうなずいた。
「よかろう。 わしが行くと人目を引きそうだから、ホリスに案内させよう」






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