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95 驚きと失望
翌朝の八時半、ヴァレリーが卵料理と野菜のバターいため、ハム、それにマフィンという朝食を取っていると、玄関からかすかに人の話し声が伝わってきて、まもなくトマスが食事室の入り口に姿を見せた。
「おはよう」
いつものように目立たない格好だ。 仕立てはいいが地味な茶色の上着と薄茶のズボン姿で、中には模様のない灰色のベストを着ている。 彼が社交界のしゃれ者でないのを、ヴァレリーは喜んでいた。
「おはようございます」
飛びつきたいほどの嬉しさとはにかみが半々の笑顔で、ヴァレリーが応じたので、トマスも表情をゆるめ、背後にいる屋敷の世話係ベンに頼んだ。
「すまないが、わたしにも彼女と同じ食事を頼めるかな。 急いで来たので、朝食がまだなんだ」
「かしこまりました」
ベンが落ち着いた答えを残して下がっていった後、トマスは笑いを消して、朝日が差し込む窓の前に立った。 そして、背後で手を組むと、ヴァレリーを見ずに話し出した。
「昨日はヘレナと買い物をしたそうだね」
「ええ、式用の物を少し」
ハリーが彼に話したのだろうと、ヴァレリーは気軽に返事した。するとトマスは、少し身じろぎした後、さりげなく尋ねてきた。
「久しぶりで会って、彼女どんなふうだった?」
ヴァレリーはちょっと考えた。
「楽しそうだったわ。 それに、前よりきれいに見えたし」
「特に悩んでいる様子はなかった?」
ヴァレリーはフォークを使う手を止め、首を回してトマスを見上げた。 彼の訊き方は、どこか不自然だった。
「どうしてそんな? ヘレナにまた何か起きたの?」
そのとき、ベンの妻で料理人のメアリが、トマスに食事を運んできたため、会話が途切れた。
礼を言ってヴァレリーの向かい側に席を取ったトマスは、卵を一口食べてから、固い口調で言った。
「彼女、どこかへ行ってしまったんだ」
ヴァレリーは野菜を喉に詰まらせそうになって、あえいだ。
「どこかへ行った?」
「そうなんだ。 といっても、さらわれたわけじゃない。 君を送った後、ハリーが劇場に戻ると、門番がヘレナから預かったと言って、書付を渡してね。 急ぎの仕事が見つかったからロンドンを出ます、と書いてあったそうだ」
「そんな……」
ヴァレリーは茫然とした。
「じゃ、もうここにはいないの? 私たちの式に出てくれないということ?」
ヴァレリーの大きな眼に涙が盛り上がってきたのを見て、トマスはテーブル越しに手を差し伸ばし、そっと指で拭い取った。
「いい女優を探していた代理人に、劇場で出会ったんだろう。 そうとしか考えられない。 きっと好きな役をやるチャンスだったんだろうな」
泣き顔のまま、ヴァレリーは小声で呟いた。
「劇場なんか、行かなければよかったのに」
同じ頃、ヘレナはサイラスに紹介されたドイル夫人の下宿屋で目覚め、食堂から朝食を部屋に運んでもらって、一人で食べているところだった。
料理はおいしかったが、食欲はあまりなかった。 これから念願の小間物店が開けるし、資金もたっぷりある。 そう自分に言い聞かせてみても、心の一部に穴が開いたような感じで、全身のだるさがなかなか抜けないままだった。
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