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アンコール!  94 押し切られ



 サイラスの思いがけない提案に、ヘレナは愕然となった。  ロンドンで店を出す? そんな目立つ危険な真似、できるわけない!
「無理。 絶対に無理!」
 言い返す声が狼狽にかすれた。
「私、ちょっと訳があって……見つかりたくない人がいるのよ。 だから、こんな賑やかな大都会からは、早く逃げ出さないとまずいの」
 サイラスの顔に陰りが出た。
「そんなにすぐか? 孫の結婚式に出席できないというのかね?」
 困りきったヘレナの顔が、初めて泣きそうになった。 それが一番の心残りだったのだ。
「本当に残念だわ。 ヴァレリーにはお詫びの手紙を出すつもり。 でも、彼女を危険に巻き込むより、ずっとましだと思うの」
 サイラスは唸り、額をこすった。
「君があとかたもなく消えたら、ヴァレリーはもっと心配するし、悲しむぞ。 やはりロンドンにいなさい。
 ここは確かに大勢の人間が出入りする騒がしい町だが、実はイギリスのどこより隠れ場所が多い。 君が知り合いに見つからず、しかも安全に商売ができる店を、わしが探してあげよう」
 そこで彼は、慈父のような微笑みをヘレナに向けた。
「幸い、君は女優だ。 いや、女優だったというべきかな。 だからちょっとした変装で、別人のようになれるはずだ。 髪型や服装でな。 眼鏡もいいかもしれん」
 ヘレナは短く息をつきながら、少し考えた。 その間に、サイラスは立って別室へ行き、すっかり書式を整えて、後は用件と署名を書き込めばいい書類を数枚たずさえて戻ってきた。
 彼がそのうちの二枚に必要事項を書き入れているのを横目で見ながら、ヘレナは心を決めた。
 これまでは、マンチェスターのような商業都市に行って、繁華街から少し外れた庶民的な横丁にでも、ひっそりと小さな店を開こうと思っていた。 だが、それだと誰も知人のいないところで、地元の不動産屋と駆け引きをしなければならない。 女一人だと足元を見られて、なかなか大変だろう。
 それに比べて、ロンドンにはサイラスがいた。 これまで常にヘレナに誠実で、隠然たる実力があり、文句なしの大物だ。 彼がついていてくれれば、どんなに頼もしいか。
 書類を作り終えて、署名を入れると、サイラスはヘレナの前に置いた。
「これが残りの四千五百ポンドの支払い保証書だ。 両方にサインを」
 ヘレナは目のくらむ思いで署名した。 手がふるえそうになったが、何とか書けた。
 それから思い切って顔を上げ、上ずり気味の声で言った。
「私やっぱり、ロンドンに残ります」
 机の角を握っていたサイラスの手から、ふっと力が抜けた。
「賢明だ。 では、これからすぐ場所探しに入ろう。 その間、君は」
 わずかに小首をかしげてから、サイラスはすぐ思いついた。
「ここの裏手のドイルさんのところにいなさい。 ゴライアスが案内する。 ドイル夫人は食堂と下宿屋をかねている陽気なおばさんで、口が固い。
 たぶん二時間もすれば候補がいくつか出せるから、呼びに行かせよう」
「ありがとう」
 計画が急激に進んでいくので、ヘレナは急行列車に揺られているような気分を味わっていた。 サイラスは扉を開けてゴライアスを呼び、短く指令してからヘレナを託した。





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