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アンコール!  93 無理な提案



「ご……五千ポンド!」
 あえぐヘレナを、サイラスは大金を動かし慣れた男らしく、余裕を持って面白そうに眺めた。
「ちょっとした貴族令嬢の持参金ぐらいあるな、え?」
 持参金…… ほんの一瞬、ヘレナの前に光が広がった。
 そのお金を持って、ハリーのところへ飛んでいきたい。 そして本名を告げ、いちおう良家の出だとわかってもらって、私から求婚するんだ。 たとえ断られても、あの人と対等に愛し合えたという思い出は残る──
 だが眩しい希望は、芽生えた瞬間に消え去った。 本名を名乗ったら暗殺の危険が待っているのだ。 だから逃げ出したんじゃないか。
 ヘレナは目の奥に力を入れて、涙をこらえた。 自分に長いこと認めさせなかった想いが、とうとう吹き上げてきてしまったのを後悔しながら。
 ヘレナはハリーを愛していた。


 サイラスは静かに立ち上がると、いったん奥に入って、手提げ金庫を持ってきた。
 彼が平気で、中身が見える角度に蓋を開いたので、ヘレナはびっくりした。 金に関しては、サイラスはいつも徹底的に用心深い男なのだが。
「当座は、君が最初に望んだ五百ポンドを即金で渡しておこう。 残りは今すぐ書類の形にして写しを取るから、必要なときにいつでも取りに来なさい」
 サイラスの長く節くれだった指が、見事な早業で金を数えはじめた。
「高額紙幣のほうがかさばらなくていいが、使いにくいし、君のような若い娘が持っていると怪しまれるかもしれん。 それでも百ポンド札を二枚だけは入れておこう。 イングランド銀行券だから、信用は確かだよ」
 話しながらでも、計算は決して間違わない。 一ポンドと五ポンドの札を多く入れて、二十ポンド札も忍ばせ、あげくに小袋に入った金銀銅貨も一緒に渡してくれた。
「この袋には、きっちり五十ポンド分入っている。 支払いの一部に使うために、準備してあるんだ。 さあ、これで五百ポンド。 調べなさい」
「いいえ」
 圧倒されて、ヘレナは呟いた。
「サイラスさんを信じてるわ」
 すると老人は、くすくす笑った。 目じりに前にはなかった細かい笑い皺が寄って、表情が柔らかくなった。
「お人よし。 店を持つなら、もっと抜け目なくならんと駄目だぞ」
「はい」
 ヘレナがおとなしく答えると、サイラスは真顔に戻って、机に両手を置いた。
「さて、そこで一つ条件がある」
 急に雰囲気が真剣になった。 ヘレナがまばたきして見返すと、サイラスはまっすぐ見つめ返して、おごそかに言った。
「よその知らない町には行くな。 このロンドンで出店しなさい」






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