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表紙

アンコール!  86 言葉にせず



 ヘレナの心配は、取り越し苦労に終わった。
 いそいそとヴァレリーが外出着に着替えに行った後、ハリーは懐から財布を出して、数枚の紙幣を円形テーブルに並べた。
「四〇、五〇、八〇…… 一一〇ポンドある。 これで足りるかな?」
 ヘレナは言葉もなく、扇形に広がった高額紙幣を見つめた。 それから、大きく息を吐いて呟いた。
「これだけのお札を見たのも初めてよ」
 ハリーは笑わなかった。 むしろ悲しげな表情になって、札を掻き集めると、ヘレナが腕から下げている小さな手提げに押し込んだ。
「ちゃんと使うんだよ。 誰から渡されたか言う必要はない。 訊かれたら、逃げるときにダーモットさんから前借したことにすればいいが、ヴァレリーは何も訊かないだろう。 気配りのいい人だからね」
 そして、驚いて顔を上げたヘレナに、くったくのない微笑を見せた。
 ヘレナのほうは、笑うどころではなかった。
「ダーモットさんですって? 私が彼のところで働いているのを、あなた知ってたの?」
 ハリーの笑顔が、一瞬仮面のように強ばった。
「あ……実は、君が夜に彼の家へ入るのを見てしまったんだ。 それで、嫉妬したこともあった」
「何ですって?」
 ヘレナはあっけに取られたあげく、我慢できなくて笑い出した。
「まさか、あの人が私に興味を? ありえない。 だって彼、女嫌いなのよ」
 それから手短に、サイラスとの出会いと雇われたいきさつを説明した。
「恐ろしいほど頭の鋭い人だけど、目だけは年に勝てないの。 だから私に細かい字の書類を読ませるのよ。 なぜか信用してくれたの。 不思議よね」
 ハリーはヘレナの手を持ち上げて唇をつけた。 そして、温かな声で言った。
「人を見る目があるんだよ。 実際、君は口が固い。 これまで僕に、彼のことを話さなかったじゃないか」
「余計なことは言わないようにしてるの。 口は災いの元というでしょう? あんな大物の噂をして、敵に回したら大変だわ。 でも」
 そこでまた可笑しさがこみあげてきた。
「ダーモットさんとの仲を疑うなんて! 挨拶で頬にキスしようとしたら、突き飛ばす人よ。 女に触られるのは絶対に嫌みたい」
 二人が手を繋いだまま見詰め合っているうちに、ハリーがまず唇を噛み、それから何か話し出そうとした。
 ちょうどそこへ、上品な服をまとったヴァレリーが現われた。
「お待ちどうさま」
 その瞬間、ハリーが苛立ったように顔をそむけたので、ヘレナは、おや、と思った。 何か大事なことを言おうとしていたように見えたからだ。
 だが、それはほんの一瞬のことだった。 すぐハリーはヴァレリーに向き直ると、いつもの陽気な表情になって、二人の娘にお辞儀した。
「二人ともすばらしく綺麗だよ。 さあ、商店街に繰り出そう!」






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