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82 様々な思惑
トマスは急いでいた。
一刻でも早くヴァレリーを妻にしないと、どこかから横槍が入って奪われてしまう。 そんな嫌な予感が頭を離れない。
それでも考え深いサイラスの忠告を聞けないほど、冷静さを失っているわけではなかった。 ヴァレリーの隠れ家を出てすぐに、サイラスは彼に釘を刺したのだ。
「まず言っておくが、ヴァレリーたちはもう下宿を引き払ったことになっている。 家賃はわしが出しておいたから、あんたはもう気にしなくていい。
第二に、できるだけ早くヘレナをロンドンに呼び戻そう。 そしてヴァレリーの傍に、結婚式までいてもらう。 ヘレナは賢くてしっかりした娘だが、悪党に狙われて動揺しているだろうし、ヴァレリーに劣らず向こうも友達に会いたいはずだ」
「確かに」
トマスは上の空で答えた。
「式のドレス選びで相談に乗ってくれるだろうな。 他の細々した買物でも」
「ヘレナにたっぷり金をわたして、自分でも好きな物を買い込んでもらうことにしよう。 買物は、女たちには何よりのいらいら解消になるらしいからな」
引かれてきた愛馬の鞍に手を置いて、トマスはひらりと飛び乗った。
「じゃ、ハリーに連絡を取ってくれるか? それともわたしが直接行ってもいいが」
サイラスは顔をしかめた。
「いや、あんたが行ったらヘレナはいい気持ちがしないだろう。 すぐわしが使いを出して呼び戻す。 あんたには他にすることがあるはずだ」
「では頼む」
その声は、既に道を遠ざかっていた。
ヘレナは新たな不安を抱えて、なかなか眠れずに寝室の天井を見上げていた。
傍〔かたわ〕らには、ハリーがシーツに半分埋まって横たわっていた。 乱れた前髪が、ヘレナの肩に触れている。 目は閉じていたが、寝ているかどうかはわからなかった。
薄暗い天井の素朴な桟〔さん〕を目で追いながら、ヘレナは考えた。
ともかく、一度ロンドンに帰らなくてはいけない。 荷物の大部分を下宿に置きっぱなしだし、劇団とサイラスにも不義理を詫びなければ。
そして何よりも、ヴァレリーが心配だった。 あんな優しい人を怖がらせ、迷惑をかけてしまった。 ジョナスが死んで、もう誰にも悪さができないことを、ヴァレリーは知っているだろうか。
悩んでいるうちに、自分でも知らず溜息をもらしていた。 すぐにハリーが目を開き、肘を立てて上半身を起こした。
「辛そうだな」
ヘレナはそっと彼に寄りかかり、肩にキスした。
「後始末をきちんとしなきゃ、と思っていたの。 下宿から荷物を持ってこないといけないし、劇団にも詫びを入れないと」
「つまり、ロンドンに戻りたいってことだね」
ハリーの声が暗くなった。 彼は私がここを出たがっていると思っているらしい、とヘレナは思い、心の中で苦笑した。
実を言えば、この栗の木屋敷はヘレナにとって、夢のような住処だった。 ハリーにはほんのちょっとした所有地の一つにすぎないだろう。 でもヘレナにとっては、このぐらいの大きさが理想だった。
家は広いが、広すぎはしない。 手頃な寝室と、ゆったりした居間、明るい食堂がある。
表には花壇が作られ、裏手には野菜畑や家畜小屋、手頃な大きさの馬屋がそろっていて、しかも、楽しくなるような小道を歩いていくと、草原と林の横を運河が流れ、交通や商品のやり取りに便利だった。
こういう家が、ずっと欲しかった。 ごみごみしたパリの下町で、子供のころから夢見てきた。 頑丈で清潔な家と、おいしい料理を作ってくれる料理人と、楽しく笑いあう家族を。
いけない、ここは仮の住居だ。
そう気がついて、ヘレナは目をしばたたいた。 そして、先のことは考えないようにした。 今はただ、ロンドンに行っても、こんな素敵な場所に帰ってこられるだけで幸せなんだ、と自分に言い聞かせた。
「町に戻りたいってわけじゃないわ。 こっちのほうが空気がきれいだし、料理もおいしいもの。 だから荷物を持ってくるの。 馬車と手伝いの人を貸してくれる?」
するとハリーは、熱っぽい口調で言った。
「僕がついていくさ、もちろん。 君の荷物ぐらい運べるよ」
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