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表紙

アンコール!  80 続ける決意



 そこへ、遠慮がちにジーンが入ってきて、ハリーに手紙を渡した。
「失礼します。 今、若い男がこれを旦那様に渡してくれと持ってきました」
 ヘレナは、ジーンの姿を見たとたん、ハリーの膝から降りて、暖炉の前に立っていた。 ハリーも立ち上がり、玄関のほうに目をやった。
「その男は?」
「急ぐそうで、名前を言わずに、すぐ帰りました」
「そうか、ありがとう」
 ジーンが去ると、ハリーは手紙の封印を切って、すばやく読み下した。 そして、厳しい表情で顔を上げた。
「ジョナス・アレンバーグが死んだ」


 ヘレナは目を見張った。
「何ですって?」
「殺されて、テムズ川の杭〔くい〕に引っかかっていた。 裸だったが、顔に傷がなかったので、彼なのは確かだ」
 衝撃を受けて、ヘレナは炉辺に手をついて寄りかかった。 ジョナスは危険な男だったが、死ねばいいとまでは思っていなかった。
「誰に……殺されたの?」
「わからない。 おそらく借金取りだろう。 さもなければ、奴にひどい目に遭わされた誰かの仕返しだ」
 ハリーの声は冷たかった。
「ジョナスの手下は、マイキーというちんぴららしい。 今、手を尽くして探しているから、すぐ見つかるだろう」
 たぶんヘレナたちの下宿を見張っていた若者だ。 ヘレナは小さく身震いした。
「これでもう、私が追われることはないのね」
 ハリーはしばらく答えず、手紙を折ってはまた開く動作を繰り返していた。
 それから、いきなり目を上げてヘレナを見つめた。 いつもは快活な笑いをたたえている目が、黒ずんで艶を増していた。
「それはそうだ。 でも、劇団にはもう戻れない。 気の毒だが」
 ヘレナは天井を見上げて、明るい声を出そうとした。
「でしょうね。 黙って舞台に穴あけちゃったもの」
 ハリーは手紙を暖炉に投げ入れ、二歩でヘレナの前に立った。 そして、ぎこちなく手を伸ばして頬に触れた。
 ヘレナは、そっとその手に頬ずりした。
「感謝してるわ。 あの男から救ってもらって」
「このまま、ここにいてくれないか?」
 かすれた囁きが返ってきた。
「大切にする。 不自由はさせないから」
 ヘレナはためらった。 何をいまさら悩むの、という声が頭にこだましたが、最後の夢を捨てるのは嫌だった。
 その夢とは、どんなに小さくとも一国一城の主になることだった。 つまり、自分の店を持つこと。 だからサイラスに無理を言って、簿記を習っていたのだ。
 記帳ができれば、自分で店を仕切れる。 会計係や徴税吏にピンはねされる心配も少なくなる。 資本金の当ても、ないわけではなかった。 誰にも内緒だが、サイラスになら打明けられる秘密の財産があるのだった。
 悩んで息を吸い込むと、ハリーが常にまとっている石鹸の香りが鼻孔をうるおした。 もうすっかりなじんだ匂いだ。 安心できる、頼りがいのある匂い。
 遂にヘレナは決心した。 もうしばらく、ここにいよう。 どうせ長くは付き合えない。 彼はきっと、そのうち夫婦ごっこに飽きてしまい、一人でロンドンに戻っていくはずだ。 別れてからでも、まだ若くて体力のあるうちに、店は開ける。







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