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78 心みだれて
とっぷりと日が暮れても、ヘレナは自分の部屋に戻らず、一階の居間で暖炉の傍に椅子を持ってきて、編物をしていた。
上流婦人はあまり編物をしない。 刺繍か、せいぜいハンカチを縫うぐらいだ。 でもヘレナは、ここの使用人たちに庶民と見られてもまったく構わなかった。
役にも立たない刺繍の額なんか作って、どうするのだ。 それより、使って暖かく、編んで楽しい三角ストールを作るほうが、ずっと好みに合った。
だがその晩は、楽しみよりも気持ちをまぎらすために二本針を動かしていた。 ここに来てまだ日が浅いのに、ヘレナはすっかり静かな暮らしになじみ、傍にハリーがいることに慣れてしまった。 彼がちょっと町に戻っただけで、こんなに寂しく落ち着かない気分になるとは、思ってもみなかった。
編み針を膝に置いて、肩のこりをほぐしていると、家政婦と料理人を兼ねているドーソン夫人が入ってきて言った。
「夕食の支度ができました」
考え事をしていたヘレナは、はっとして顔を上げた。
「ありがとう。 すぐ行きます」
立ち上がったとき、表から馬の蹄の音が聞こえた。 ヘレナとドーソン夫人は、反射的に顔を見合わせた。
「ハリーかしら」
「そのようですね」
とたんに二人ともそわそわしはじめた。 夫人は耳まで口の端が届きそうな笑顔になって、手をもみ合わせた。
「これは旦那様の分もお出ししなければ」
「私は迎えに行ってくるわ」
軽い足取りで居間を飛び出すヘレナの後姿を、ジーン・ドーソンは母か伯母のような眼差しで見送った。
それは確かにハリーだった。 愛馬の手綱を下男に渡して、急ぎ足で玄関を開けたとたん、走ってきたヘレナと鉢合わせになった。
「おかえりなさい!」
まだマントを着たままの首筋に、ヘレナの両腕が抱きつき、頬が重なった。
「顔が冷たいわ」
「ずいぶん冷えてきて、小雪が舞っているんだ」
そう言いながら、ハリーはヘレナの頭のてっぺんに唇を押し当てた。 こんなに歓迎されると思わなくて、胸が熱くなっていた。
「お帰りは明日だと思ってた」
「いや、僕は夜中になっても帰ってくるつもりだった」
ハリーは冷風の吹き込む扉を閉め、ヘレナの肩を抱いて居間に入った。 その後ろからコーディーが追いかけて、マントと帽子を脱がせて持っていった。
暖炉が大きく燃えていたので、ハリーはさっそく寄っていって、かじかんだ手をかざした。
「この部屋にいたんだね? ああ、暖かくていい気持ちだ」
寄り添っていたヘレナが不意に身じろぎした。 ハリーが顔を見ると、ヘレナの視線が耳に集中していた。
「怪我をしたの?」
ハリーは笑って、軽く答えた。
「ほんのかすり傷さ」
「火薬の臭いがする」
鋭いヘレナの目はごまかせない。 しかたなく、ハリーは短く説明した。
「屋敷の前で、誰かに狙われた」
とたんにヘレナの膝が崩れかけて、ハリーがとっさに支えた。
「大丈夫だ。 それより君のことが心配で、裏口から抜け出して飛んで帰ってきたんだ。 奴がここをかぎつけていたらどうしようと思った。 よかったよ、君が無事で」
「何を言ってるの!」
見上げたヘレナの眼に、涙がいっぱいに溜まって、暖炉の光できらめいた。
「全部私のせいなのに。 あなたが命を狙われるなんて、自分が許せない」
「落ち着いて。 君のせいなんかじゃない」
ハリーは、おののくヘレナを抱きしめたまま、さっきまで彼女が座っていた椅子に腰をおろした。
「撃ったのがアレンバーグだとしたら、相当追い詰められて判断力を無くしている。 君の居場所を知らずに僕を殺してしまえば、どうやって探し出すんだ?
ともかく、奴が街をうろうろするようになったら、すぐ見つかる。 そう手配してあるんだ。 きっとすぐ捕まるよ」
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