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表紙

アンコール!  73 死に物狂い



 時が止まったような二時間の後、二人はまた馬車に乗って、のんびりと家へ戻った。
 外にいる間、ハリーとは軽くじゃれ合ってキスをしただけだった。 だが、その夜遅く、再び訪れがあった。
 一旦寝付いた後だったが、ヘレナはすぐ目を覚ました。 そして、夜の密やかな空気の中に彼の清潔な匂いを感じ取って、ゆっくり身を起こした。
 壁に添って立っていた見えない影が、暖炉の炎の踊る前に輪郭を現した。
「起こしてごめん」
 囁き声が低く耳を打った。
 ヘレナは不思議だった。 なぜ彼は、自分から近づいてこずに、闇の奥にたたずんでいるのだろう。 詫びるくらいなら、なぜもっと早く、堂々と部屋に入ってこないのか。
 だが、好奇心より人のぬくもりを求める気持ちが勝った。 ヘレナは縁を金色に染めた黒い影を見上げ、囁きで答えた。
「冷えてきたわ。 布団に入って」


 翌朝、ヘレナは夜明け前に目覚めた。
 最初のときと同じく、横にはハリーの姿はなかった。 昨夜の睦みあいが嘘のように、ヘレナはなめらかな敷布の上で、一人ぼっちだった。








 ロンドンのとある宿屋の二階では、額に青筋を立てたジョナス・アレンバーグが、しょげて両手を揉み合わせている若い男を怒鳴りつけていた。
「逃げた? 二人とも逃げただと? てめえは、たかが下っ端女優とクソ店員の見張りもできねぇのか!」
 マイキーというひょろっとした不良は、口を引きつらせて言い訳をした。
「それが、どっちにも大物の後ろ盾がいるみたいなんで」
「くそっ、ヘレナのほうは見当がつく。 あのにやけた子爵のくそったれだな。 あいつのところに逃げ込んだんだ」
 怒りに任せて、ジョナスが床を踏み鳴らしたので、安宿の薄い床板がたわんで、不吉なきしみ音を発した。
「俺が自分で探りに行ってきた。 おまえが頼りにならないからな」
 氷のような目で睨まれて、マイキーは首を縮めて下を向いた。
「ハムデン子爵めは、三日前から屋敷に戻っていない。 家に女をかくまっている様子もない。 ヘレナを手に入れて大喜びで、どこかにしけこんでいやがるんだ。 畜生!」
 そうなるよう自分がヘレナを追い込んだのだと思うと、悔しさがいっそうつのった。
「だが、コックスとかいう同室の女を逃がしたのは、誰だ? 下宿のばばあは知らないの一点張りだし、本屋のおやじは急に店員が消えたのに、平気な顔をして機嫌が良かった。 どちらも相当鼻薬をかがされてるに違いねぇ。 だが、金をやったのはハムデンじゃなさそうだ」
「どうしてわかるんで?」
 マイキーがおそるおそる訊いた。 するとジョナスは目をすがめ、悪鬼のような形相になった。
「それはな、どっちもびびってなかったからだ。 おれがちょいと締めあげてやろうとすると、道をぶらぶらと男が二人歩いてきて、おれの後ろで咳払いしやがった」
「つまり、用心棒……?」
「間違いなくな。 しかも相当のワルだ。 貴族が雇うようなタマじゃねぇ」
 マイキーの細い首が揺れた。 本心から怖くなったらしい。
「やばいっすよ、兄貴。 筋者が出てくるようじゃ、もう諦めたほうが……」
 するといきなりジョナスが飛びかかって、マイキーのよれよれになったスカーフをねじり上げた。
「俺は諦めねぇぞ! もう手は引けねぇんだ! 借金がかさんで、首までどっぷり来てる。 ヘレナの金がなきゃ、手が後ろに回るか、喉をかっ切られるんだ!」







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