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表紙

アンコール!  72 小春日和に



 ピクニック!
 ヘレナの目が星のように輝いた。
 パリのむさくるしい下町で幼い日々を過ごした娘にとって、ピクニックは魔法の言葉だった。 貧民窟に近い場所でも貧富の差はあり、小金を貯めた商店の子が荷馬車にバスケットを載せて、はしゃぎながら郊外へ出かけていくのを何度も見送ったものだ。
「いい天気だものね。 行きましょう! 何を持っていく?」
「まずサンドイッチだな。 きゅうりは好きかい?」
「ええ」
 食べられるものなら何でも、と言いそうになって、ヘレナはあわてて口を閉じた。 飢えた経験のない相手に、そんなことを言っても馬鹿にされるだけだ。


 半時間後、二人は馬車に乗った。
 すべてがパリの下町とは大違いだった。 無蓋の馬車は荷馬車ではなく、ばねが利いていて、空の上を走っているようになめらかだった。
 そして、目当ての低い丘のふもとでは、澄んだ小川がさらさらと音を立てて流れる近くに、傍仕えのコーディーが柔らかい敷物を敷き、大きなバスケットからパンや果物、上等なワインを出して並べてくれた。
 用意が済むと、コーディーはすみやかに立ち去り、ヘレナはハリーと二人だけで残された。
 地面の草は冬枯れていたが、日だまりは暖かく、羽織ってきたマントが暑いぐらいだった。 ヘレナが大きなオレンジを手に取り、街角でこういうのを声を嗄らして売ったことがあったな、と思い出していると、ハリーがマフィンをつまんで、ヘレナの口元に近づけた。
「一口食べて」
 ヘレナは言われたとおりにした。 するとハリーは、残りをパッと口に入れて、食べてしまった。
「うん、バターがたっぷり入っていて、いつものうまさだ」
「お毒見させたの?」
 ヘレナが笑うと、ハリーが覆い被さってきて、熱くキスした。
 敷物の上に並んで横たわったまま、二人は軽くじゃれながら、食べて語り合った。
「君の眼は、光の加減でいろんな色に見える」
「誰でもそうじゃない?」
「君は特にそうだ。 朝の室内だと青で、午後は緑の輝きが入り、夜の照明だと翡翠〔ひすい〕色になる」
「あなたの眼だって、いろんな風に見えるわ。 暖かい茶色のときもあるし、猫のように金色になるときも」
「本当かい?」
 ハリーは驚いた。
「金色? 知らなかった」
「自分じゃ見えないものね」
 二人は声を合わせて笑った。 ささいなことが楽しかった。 空は高く澄んでいて、空気は暖かい。 土の含んだ湿気が太陽熱で蒸発して、川面〔かわも〕に柔らかいもやが揺れていた。
 ハリーは、とてもくつろいでいて、まるで少年のように見えた。 普段でも彼は常に楽しげで、緊張などしたことがないようだが、やはり人前に出ているときにはそれなりに気を張っているんだ、と、ヘレナは悟った。
 そんなとき、ハリーがヘレナの手をたぐり寄せて、唇をつけた。
「昨夜ジーンから聞いたんだが、近くのエヴァンスさんの家に仔犬が生まれたそうだ。 一匹もらおうかと思っているんだが、犬は好きかい?」
「ええ」
 ハリーは体を回して腹ばいになった。
「実はもう猫もいるんだ。 寒い時期は台所に入りっきりで、かまどの飾りになっているが」
「そうなの?」
 ヘレナは嬉しくなった。 パリでの寒い夜、大猫のタタを抱いて寝るのがどんなに温かかったか。 彼女が大事にしたので、近所では珍しく、年老いて眠るように死ぬまで、タタは長生きしたのだ。
「猫も好きよ。 昔の住まいでは、ずいぶんネズミを獲ってくれたわ」







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