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表紙

アンコール!  66 姿を消して



 ヴァレリーがサイラスに連れられて、下宿屋を慌しく抜け出したころ、ヘレナもまたハリーと共に馬車に乗り、夜道を南に向けて進んでいる最中だった。
 馬車は二台連ねて、後方の車には荷物と共に、ヘレナの小間使いに指名されたエイミーと、ハリーの傍仕えのコーディーが乗っていた。
 どこを目指しているのか、ヘレナはまだ教えてもらっていなかった。 そう遠くないのは、ハリーの言葉からわかる。 少なくとも二時間あれば着くよ、と、彼はヘレナに告げたのだった。
 遅い朝食を一人でのんびり取った後、不意に顔を見せたハリーが、これから君を他所に連れていく、と言ったとき、ヘレナは素直に従った。 愛人を別の家に置いておく男は多い。 というより、ほとんどだからだ。
 でも、通うのに便利なように、街中のフラットを借りるのが普通だった。 それが二時間も離れた場所というのに、ちょっと驚いた。


 馬車は暗くなってから出発し、やがて静かな村に来た。
 街道から脇道に曲がって更に五分ほど走ると、木立の陰から不意に家が見えた。 といっても、時間が時間だから黒っぽい影だが、半月がわずかに光を送っていて、骨格のしっかりした二階建ての屋敷だというのが見て取れた。
 馬車が止まると、ハリーは先に下りて、自分で軽々とヘレナを抱き下ろした。
「栗の木屋敷だよ。 僕はここではハンフリーズ氏ということになっている。 だから君はハンフリーズ夫人だ」
 まあ、変名で隠れ家を持っているの?──ヘレナは奇妙な気分で、門から玄関までの石を敷き詰めた通路を眺め、軽い口調で訊いた。
「そう。 で、何人目の奥さん?」
 冗談のつもりだったが、ハリーは笑わなかった。 代わりに口元を引き締め、短く答えた。
「初めてのだ、もちろん」


 すぐに玄関の扉が開き、三人の人間が急ぎ足で出てきた。 ランプを掲げているのは家政婦らしく、たっぷりした体を黒っぽい服で包んで、腰に鍵束を下げていた。
 残りの二人は男で、馬車を一台ずつ受け持って前庭に入れ、厩舎まで運んでいって馬を手際よく外していた。
 ハリーとヘレナが歩いていくと、家政婦はりんごのような丸顔に笑みをうかべて、膝を折った。
「おかえりなさいませ」
「半月ぶりだね、ジーン。 こんな時間でも道にチリ一つないのは、さすがだ」
 褒められて、ジーンの顔がますます輝いた。
「おそれいります」
 彼女の視線がヘレナに向いた。 優しい笑顔のままだ。 ヘレナは少したじろいだが、ハリーはあっさりと紹介した。
「ハンフリーズ夫人だ。 ヘレナ・ハンフリーズ。 小間使いのエイミーも連れてきたから、部屋をよろしく頼む」
 あっぱれなことに、突然新夫人の存在を知らされても、ジーンは睫毛ひとつ動かさなかった。
「かしこまりました。 ではすぐに奥様のお部屋を準備させます」
「ありがとう。 じゃ、僕達には軽く食事を。 君の作るものなら何でもおいしいから、注文はつけないよ」
 ジーンは軽く頭を下げてから、ヘレナに眼差しを向けて、礼儀正しく尋ねた。
「奥様は何を召し上がります?」
 ヘレナは驚いた。 主人が何でもいいと言ってくれているのに、わざわざ奥方のほうにも訊くとは。 この屋敷には身分の上下を厳しく決める習慣はなく、家政婦の権限が大きいのが見てとれた。
 だからヘレナも、急いで考えて答えた。
「そうね、温かいスープかシチューがあれば嬉しいわ」
 ジーンはホッとした様子で、ヘレナにも頭を下げた。
「支度できると思います」







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