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表紙

アンコール!  64 驕慢と謙譲



 君?
 ヴァレリーは顔を引きつらせた。 サイラスは彼女が目の前にいることを忘れたように、じっと絵だけを見つめつづけていた。
「……全部本気だったのに、なぜ信じなかった? いくら身内だからって、あんな女の言うことを鵜呑〔うの〕みにして」
「あんな女?」
 はっとして、サイラスは口をつぐんだ。
 緊張をはらんだ沈黙が数秒間続いた後、サイラスの声に厳しさが戻った。
「話しても、あんたは信じないだろう。 ハッカビー一族だからな」
 ヴァレリーは眼をしばたたいた。 じれったく、切ない気持ちがつのった。
「私はお祖母ちゃんの味方だったわ。 だからお祖母ちゃんは私だけに、ロンドンの絵を見せてくれたの。
 病気で亡くなる少し前に、看病していたら、ぽつりと言ったことがあった。
『人が何と言おうと、私は夢を叶えたんだから』」
 知らぬ間に、ヴァレリーは小さな拳を握りしめていた。
「お祖母ちゃんは故郷を離れて寂しがっていたけど、不幸じゃなかった。 お母さんだってお祖母ちゃんを大事にしていたわ。 ただ、あなたのことでは譲らなかっただけで。
 たぶん……たぶんお母さんは、本心ではあなたに会いたかったんじゃないかと思う。 でも、そんなことを言ったら、実の娘のように育ててくれたお祖父ちゃんに悪いし、きっとあなたはお祖母ちゃんのことをとっくに忘れてしまっていると思って……」
「そう言ったんだな? あの女がそう伝えたんだ。 そうだろう?」
 いきなりほとばしるように、言葉が返ってきた。 ヴァレリーは首をかしげ、ますます青ざめた顔色になったサイラスに問いかけた。
「あの女って、誰?」
 サイラスは必死に自分を押さえたが、その結果、声が裏返りそうになった。
「リスベス・ハッカビーさ。 あんたが頼ってロンドンに出てきた伯母さんだ」
「リスベス伯母さん?」
「そうだ。 ハッカビー家はあの当時、ジョンストン街に住んでいて、わしが勤めていた店のすぐ裏側だった。 そしてリスベス・ハッカビーは、あの近所で一番の美人だと言われていた」
 声が低くなり、さげすむような響きが加わった。
「どういうわけか、リスベスはわしに近づいてきた。 たぶん、わしが妹のマリアンを目で追っていたからだろうな。 さもなきゃ、ただの店員なんぞに興味はなかったはずだ。 若い商店主や色男の軍人に取り囲まれていたからな。
 だが、わしにはマリアンしか目に入らなかった。 彼女は静かな恥ずかしがり屋で、ダンスにもなかなか加わらなかったんで、知り合うチャンスがなかなかなくて、ずいぶんじれたものだ。
 そのうち、踊りができないと打明けられて、それなら教えてあげると口実ができた。 わしが口笛で伴奏をつけて、納屋でステップを練習した。 すぐに小鳥のように軽々と踊れるようになったよ」
 ヴァレリーの視線が、サイラスの握っている絵に落ちた。 あの美青年と若き日の祖母が、がらんとした納屋で飛ぶように踊りまわっている姿が、目の前に浮かんだ。
「二ヵ月後に結婚を申し込んだ。 貯めた給料をはたいて指輪も買った。 だが急に会えなくなって、何通も手紙を出して、ようやく今夜会いに行くと返事が来た」
 ふと不吉な予感が、ヴァレリーの背筋を走った。








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