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表紙

アンコール!  60 醒めた後は



 翌朝、ヘレナは寝坊した。
 といっても、世間並みの時間に起きなかっただけで、彼女としては普段より早く目覚めた。
 重い瞼をこじ開けて、天井を見上げたとき、最初は自分がどこにいるか思い出せなかった。
 もう太陽はとっくに空高く上り、寝室は明るくなっていた。
 まばたきしながら豪華な天井飾りを眺めているうち、次第に記憶が戻ってきた。
 反射的に横を見たが、誰もいない。 この時間なら当然だろう。 目をこすって体を起こし、暖炉に置かれた優雅な置時計を見ると、十時半を回っていた。


 ぼうっとしたまま起きて、いつものように身支度をした。
 昨夜のことは、できるだけ考えないようにした。 感情に流されると、正しい判断ができなくなる。 ハリーと名前で呼び合う仲でも、こうして一足飛びに親密になっても、彼とは良くて友達。 実際は、初めて持つパトロンにすぎないのだ。
 一人でさっさと着替えた後、鏡の前に座ろうとして思い出した。 たしか、髪を結ってもらう約束をしたような。
 こんなことをする身分じゃないのに、という心の声を振り払って、ヘレナはそっと呼び鈴の紐を引っ張った。 すると、二分もしないうちにドアが開き、白いキャップをかぶった娘が入ってきて、膝を折って挨拶した。
「おはようございます」
 声も表情も感じのいい、実直そうな小間使いだった。 ヘレナは気が楽になって、微笑みながら招きよせた。
「髪を上に上げて、まとめてくれるかしら?」
「はい、奥様は波打った綺麗なおぐしをしていらっしゃいますから、ふんわりとアップにして耳の横にカールを一筋垂らすとお似合いだと思います」
「じゃ、お願いするわ」
 そう答えている間に視線が横に流れて、書き物机に置いたままの手紙が目についた。 ヘレナは急いで立ち上がり、娘に尋ねた。
「お名前は?」
 娘はちょっと驚いて顎を引き、ていねいに答えた。
「アマンダ・コーストです、奥様。 エイミーと呼ばれています」
「ではエイミー、髪結いの前に一つ頼まれてくれる? この手紙をこちらの住所に届けてもらうよう、手配してほしいんだけど」
 頼む間に手を動かして、別の紙にさらさらとサイラスの住所を走り書きした。
 手紙とあて先を受け取ったエイミーは、すぐ答えた。
「はい、執事のペイトンさんに頼んできます。 少々お待ちを」


 あのがっちりした執事はペイトンというのか。
 ヘレナは窓際に行って、ガラス越しに庭を眺めた。 窓は表ではなく裏庭に面しているらしい。 寒い季節なので花はなく、碁盤のように区切られた整然とした花壇には、常緑低木を刈った垣根があるだけだった。
 不意に訪ねてきたのに、窓はぴかぴかに磨かれていた。 常に手入れをしているのだろう。 指で触れるのも悪い気がする清潔ぶりは、館の主そのもののように思われた。
 だからヘレナは窓枠だけに手を置いて、さっき小間使いに『奥様』と呼びかけられたことを思い浮かべた。
 たしかにお嬢様じゃない。 でも奥様かというと、もっと違う。
 お客様、ぐらいが適当なのではないか。 他の女の人が来たときも、奥様と呼ぶようにしているのだろうか。
 そう思うと、胸が騒いだ。


 エイミーは、今度も三分経たないうちに戻ってきて、報告した。
「ペイトンさんは、すぐあのお手紙を従僕のフレッドに渡しました。 彼は足が速いので、一時間で届くだろうということです」
「ありがとう。 助かりました」
 ほっとして、ヘレナはエイミーをねぎらった。








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