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表紙

アンコール!  59 夢とうつつ



 寝る前にまた髭をそるなんて、几帳面な人。
 そう心で呟いたヘレナの脳裏を、子爵とはまったく逆の顔がかすめ過ぎた。 無精ひげで顎が埋まり、鼻の脇から耳たぶにかけて、ざっくりと大きな傷跡のついた顔。 垢じみた体臭を思い出すと、今でも息が詰まりそうになった。
 もういいかげん忘れなきゃ。
 ヘレナは固く目をつぶり、ガウンに包まれたままのハリーの背中に手を伸ばして抱きしめた。 そして、自分が抵抗を覚えないのにびっくりした。
 もともと甘ったれではなかった。 父がいつも母にばかりかまけていて、娘に対しては上の空だったせいかもしれない。 男たちにちやほやされるようになったのは十五を過ぎてからで、それまではひょろっとしてすばしっこく、あまり目立たない子供だった。
 イギリスに渡ってきて以来、内心の男見知りはいっそうひどくなっていた。 本心は手を繋ぐのも嬉しくない。 だから舞台でも、ほんの下っ端の役で我慢していた。 劇場主や演出家と仲良くなって役をもらうことができないからだ。 よく知らない、知りたいとも思わない男にキスなんかされたら、吐いてしまいそうだった。


 でも、いい匂いのするハリーを腕の中に抱いていると、鼓動が静まってきた。 彼は優しくてひょうきんで、よく周囲を笑わせてくれる。 気のいい女たらしと評判で、家にいろんな女性を連れ込むという噂も聞いた。 だが別れ方も上手なようで、女がらみの騒ぎに巻き込まれたことはないそうだ。
 この人ならきっと、秋の風のように私の上を吹き過ぎていくだけだろう。 悩みも後悔も残さずに。
 私はほとぼりがさめるまで、この人に守ってもらえれば、それでいい。
 陰険なジョナス・アレンバーグより地位も財力もずっと上のハリーなら、防波堤として最良だ。 彼が依然として動かないので、ヘレナはそっと首を伸ばして、きれいに剃りあげた顎に軽くキスした。
 するとようやく、彼の腕に力が篭もった。 体を返してヘレナを引き寄せると、大きいが繊細な手で背中の曲線をたどった。 宝物を扱うような触れ方をされて、ヘレナの本能的な抵抗感は急速に消えていった。




 半時間後、二人はもたれあうようにして横たわっていた。
 ヘレナはハリーの肩に額をつけ、あくびを噛み殺した。 なんだか満足した猫のような気分だ。 ずっと恐れていた崖から飛び降りたら、下はふかふかの羽根布団だった、という感じだった。
 こんなに尽くしてくれるベッドの相手なら、もてるのは当たり前だ、と、ヘレナは思った。 サービスするのはふつう愛人のほうだろうが、彼は違った。 ヘレナを盛り上げて、共に高みへ昇らせ、しかも行為そのものは淡白だった。
 何をやっても野暮なところがない。 本物の紳士なんだ、と、ヘレナは感心せずにいられなかった。 そしてホッとしたところで、急激に睡魔がぶりかえしてきた。
 もう瞼が落ちてきて、まともに目を開いていられない。 ヘレナは幼な子のような吐息をもらすと、ことりと眠りに落ちた。









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