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58 夜のしじま
だが、すぐ笑いは収まった。 妙な点に気づいたからだ。
目の前にあるのは、すべて新品だった。 少しのねじれも使用感もない。 買ったまま、しまいこまれていたらしい。 面白がってヘレナが引っ張り出したところだけ、列が乱れていた。
なんだか悪いことをした気になって、ヘレナはできるだけきちんと並べなおしてから、最後に残った大きな引き出しを、そっと開けた。 そして息を呑んだ。
中には真っ白な夜着が入っていた。 無地がほとんどで、つつましやかなデザインだ。 だが一番上に見事なレースつきのものが収められていて、ヘレナはどうしても取り出して、よく眺めたくなった。
大きな姿見の前で体に当ててみると、丈がぴったりだった。 とても美しいし上品だ。 こういうのが買える身分だったらな、と、初めて思った。
あるものは何でも使っていいと言われていたが、この寝巻きには手が出なかった。 ヘレナは上等なドレス並みに値が張るんじゃないかと思われる夜着を引き出しに戻し、下にある清楚なものを一つ出して、身にまとった。
その引出しには、色つきの寝巻きは一つもなかった。 みんな白だ。 靴下留めの百花繚乱を思うと、寝室でこそ派手で挑発的な寝巻きを着せたいんじゃないかと思ったのに、予想は見事に外れてしまった。
ヘレナは首をかしげながらベッドにもぐりこみ、ほぼ同時に眠りの国へ一直線に落ちていった。
広い屋敷は、とても静かだった。
ヘレナの下宿もあまり音はしないが、それでも夜ときどき走りすぎる馬車の音や、酔っ払いのわめき声が聞こえることはある。
あまりに静まり返っているためか、ぐっすり眠り込んだ数時間の後、まだ明け方前にヘレナの意識が戻った。
ベッドは牛が眠れるぐらい大きく、布団はちょうどいい弾力で、気持ちよく体を支えてくれていた。 心地よく伸びをしようと腕を動かしかけたとき、ヘレナは気づいた。
寝室に、誰かいる。
相手はまったく身動きせず、息も殺していた。 それでもヘレナには、ほとんどないぐらいの気配が感じ取れた。 以前、父と二人、命がけの旅を三日間続けたことがあったからだ。
あのときは、常に神経をとぎすましていた。 野宿したときには、道端の草のそよぎと、夜行性の獣のかすかな忍び足を、聞き分けることができたほどだ。
下宿から逃げ出した際、拳銃の入った手提げを忘れずに持ってきた。 でもこの屋敷は安全だと思い、枕の下に入れておくのを忘れていた。
いや、安全なはずだ。
意識が急激にはっきりしてくる中で、ヘレナは自分に言いきかせた。 この部屋に自由に入れる者、それは一人しかいない。
「ハリー?」
ヘレナは枕からわずかに身を起こし、ささやき声で奥の暗がりに呼びかけた。
わずかな間を置いて、影が動いた。
ヘレナはベッドの上に座りなおすと、右手を差し伸べた。 ハリーには、ここにいる権利がある。 なぜ離れたところに立っていて、自分を揺り起こさなかったのかわからないが、きっと疲れているからと気遣ってくれたのだろう。
「こっちへ来て」
見えない糸で引かれるように、影が大きくなって近づいてきた。 背後に燃える暖炉の炎が、闇から出てきた大きな輪郭を金色に縁取った。
彼がベッドの横に立つと、いつも仄かにただよわせている清潔な石鹸の香りが、普段より強く匂ってきた。 彼も風呂上りなのだ。
「髪は乾いた?」
ヘレナは眠たげに尋ねながら、ハリーの手を取った。
とたんに彼は崩れるように、敷布の上に膝をつき、ヘレナのすぐ傍に体を横たえた。 だが、腕は回さず、手を握っているだけだった。
それで、ヘレナはハリーの頭に触れ、髪を確かめた。
「大丈夫。 すっかり乾いてるわ」
男の人の髪の毛を自分から触ったのは、これが初めてだ。 舞台で相手役を抱きしめたことはあるけれど、あれはただの芝居。 しかもたいてい整髪料で固めていて、こんなにさらさらと柔らかい感触ではなかった。
さわり心地のいい髪に手を埋めていると、顔がゆっくり降りてきて、頬が重なった。 驚いたことに、髭剃りをしてあって、すべすべした感触だった。
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