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表紙

アンコール!  57 不思議な事



 ハリーの指定した上の部屋とは、二階にあった。 居間と付き添い部屋、それに着替え室つきの、いかにも上流婦人の寝室という感じの立派な続き部屋で、壁には薔薇の模様を紋織りにした淡いクリーム色の絹が貼ってあった。
「優雅なお部屋ね」
 マーガトロイド夫人がガス灯をつけたとたん、金色の光に浮き出た光景に、ヘレナは思わず見とれた。
 夫人は寝室に通じる着替え室のドアをあけて、壁一面に並ぶ衣装棚と箪笥を見せた。
「お着替えは、こちらに入っております。 どれでもお好きにお使いください」
「ありがとう」
 舞台で貴婦人を演じたことがあるのが、こういう時に役立った。 ヘレナは落ち着いて夫人の言葉に応じることができた。
 夜中に押しかけてきた女性客を、マーガトロイド夫人が内心どう思っているかわからないが、少なくとも表向きは、おだやかな礼儀正しい態度を崩さなかった。
「ご不自由がおありでしたら、あちらの紐を引いてお呼びください。 すぐ参りますから」
「助かります」
 そのとき、夫人の顔にかすかな微笑が浮かんだ。
 見落としてしまいそうな微笑だったが、ヘレナはすぐ気づき、自分も笑顔になった。
「浴室はこちらでございます」
 夫人はドアを開け、通路を挟んだすぐ前の扉を手で指した。
「蛇口を開くと、ポンプで汲み上げたお湯が出てくる仕組みになっております。 ご案内しましょう」


 金持ちでも普通は、下から使用人に湯を運ばせて風呂に入るものだ。 だがこの家では、一階の床下の半分に配水管を回し、ボイラーで炊いた湯を循環させて、暖房の助けにしているのだという。
「回って出てきたお湯をもう一度温めて、また回します。 その一部を二階でお風呂に使うこともできます」
 ヘレナが聞き上手なので、マーガトロイド夫人は嬉しくなったのか、細かいことまで教えてくれた。
「子爵様のお部屋と、このお客様用と、二階に浴室は二つございます。 一階にもお湯の栓があって、私どもも使えるんですよ」
「すごい設備ですね」
 ヘレナは感心した。 合理的だし便利だ。 ハリーがいつも身ぎれいにしている理由が、わかった気がした。


 どうやら夫人はヘレナが気に入ったらしく、入浴の手伝いに女中をよこそうか、と言ってくれた。
 ヘレナは丁重に辞退した。
「ありがたいけど、自分でやります。 こんな遅い時間に仕事させては悪いし」
「では、明日お目覚めになったら、ベルを鳴らしてください。 髪結いのうまい子を来させますから」
 これは受けたほうがありがたい。 ヘレナはそうすると約束した。


 浴室には、ふんわりしたタオルやガウンが揃っていた。 そして蛇口からは、ちょうど頃合いの温度の湯がたっぷりと出た。
 湯船につかるとすぐ、あまりの心地よさにうたた寝しそうになった。 それでもがんばって髪まで洗い、ガウンを着て向かいの寝室に戻ると、気持ちいい炎を上げている暖炉の前に座って、髪を乾かした。
 生乾きの髪をくしけずっている間に、さまざまな考えが頭を駆け巡った。
 勢いでここに飛び込んできてしまったが、これからどうなるのだろう。 ハリーは何とかすると言ってくれたが、こんな形で舞台を放り出しては、もう使ってもらえない。 それにサイラスさんの仕事も……
 ぎょっとして、ヘレナは顔を上げた。 そうだ、サイラスさんとの約束を勝手に破ったら大変だ!
 ヘレナは飾り彫りのついたチークの書き机を見つけて、引出しからペンとインク壷、それに上等な便箋を取り出し、事情を説明する手紙を書き上げた。 そして、丁寧に折って封筒に入れ、忘れないように机の真中に置いておいた。


 そうこうしているうちに、髪は乾いた。 ヘレナは着替え室に入り、寝巻きを探そうと引き出しを開けて、目を見張った。
 衣装箪笥の引出しは、品別に分けてきちんと整理されていた。 肌着、コルセット、ペチコートにストッキング。 それにしても……
「なに、この数。 それにサイズも」
 いくつかコルセットを出してきて、ヘレナはあきれて首を振った。 細いのから大判まで、市販のあらゆる大きさがそろっているのではないか。
 小物はもっと面白かった。 靴下は薄いのだけでなく、冬用の分厚いのもちゃんとあるし、色も上品なベージュや白、黒だけに収まらず、深紅や緑、縞模様に網タイツまで揃っていた。
 そして、華やかな靴下止めの群れ。 こちらも、使ってみたくなる上品なレースから、大きな造花や模造宝石をちりばめたけばけばしい安物まで、下着店が開けるぐらい詰め込まれていた。
「信じられない。 この分だと、寝巻きも普通のだけじゃなく、夜の女みたいなのもきっとあるわね」
 ハリーって、こういう人なの?
 ヘレナはガウンのまま床に座り込んで、声を出さずに笑いころげた。







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