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表紙

アンコール!  56 家での素顔



 珍しく、ハリーの髪は乱れていた。 いつも床屋から出てきたばかりのようにきちんとしているので、濃い金色の巻き毛が一房額に垂れかかっているのが、かえって新鮮だった。
「どうした、ひどく困っているようだが?」
 ヘレナは不安のあまり、手を揉み合わせそうになったのを、意思の力でどうにか抑えこんで、低い声を出した。
「前触れもなくいきなり来て、ごめんなさい。 他に頼れるところがなくて。
 私、無理やり結婚させられそうなの」


 ハリーは入り口に立ったまま、ヘレナを見つめた。
 無表情のままなので、どう思っているのかはわからない。 ただ目だけが鋭くなって、その奥にある頭脳がすばやく回転しているのが感じ取れた。
 やがて彼は、慎重に口を開いた。
「相手は嫌な男なのか?」
 ヘレナは無意識に、まだ脱いでいなかったコートの縁を固く握りしめた。
「身勝手な悪党よ。 人を殺したという噂もあるわ」
「僕の知っている男?」
「たぶん。 ジョナス・アレンバーグよ。 ブラックモア男爵の息子」
 短いが鋭い息が、ハリーの唇から吐き出された。
「あいつが、君に求婚?」
「ええ、一応正式にね」
 ヘレナは歯で言葉を押し出すように答えた。
「でも私の返事なんか聞きゃしない。 自分独りで決めて、明日の夕方に指輪を持って、また来るって」
 ハリーは小さく首を振り、唇を噛むと、後ろ手に扉を閉めた。 そして、ゆっくりヘレナに近づいた。
「まずコートを脱いで、座って。 シェリー酒を飲むかい?」
「ありがとう」
 空きっ腹に酒を入れると、早く酔いが回る。 わかっているものの、何か飲んで落ち着きたかった。


 ハリーはコートを肩から外すのを手伝ってから、ヘレナの傍を通り過ぎ、壁に作りつけた戸棚から瓶とグラスを出して、二人分そそいだ。
 渡された酒を、ヘレナはしっかり両手で持って、少しずつ口に運んだ。 うっかりすると、がぶ飲みしそうだった。
 ハリーはグラスを手に持ったまま、向かい合った椅子に腰をおろし、じっとヘレナを見つめた。
「ここへ来たのを、誰かに見られたかい?」
「いいえ」
 ほぼ確信を持って、そう言えた。
「ジョナスは下宿屋の外に見張りを置いていたけれど、その男が途中で帰ってしまったので、そっと逃げ出してきたの。 尾行を連れてきて、あなたに迷惑をかけるようなことはしないわ」
 辻馬車で来る途中でも、何度か背後を確かめた。 後をついてくる他の馬車や馬は、まったくいなかった。
 ハリーはうなずき、グラスをテーブルに置いて立ち上がった。 それから、別人のようにきびきび動き始めた。
 まず彼は、入ってきたほうではなく奥にもう一つある扉を開いて、誰かを呼んだ。 その相手はすぐやってきて、密談がしばらく続いた後、別の人間がまた呼ばれた。
 合計四人に指令を出してから、ハリーは最後の一人を客間に入れた。 黒のパリッとしたお仕着せをまとった、三十代の穏やかな顔をした婦人だった。
「マーガトロイド夫人だ。 君を上の部屋に案内する。 浴室の用意をさせるから、ゆっくり休みなさい。 劇場のほうは、こっちで手配しておくから、心配はいらない」
 ヘレナは反射的に、脱いだコートを腕に抱えて立ち上がった。
 ハリーの処置は、実にてきぱきしていた。 いつもの、のんびりしていてどこか頼りない風情は、どこにもない。
 ついでに言えば、ヘレナに会うたびに彼が浮かべるとぼけた甘い表情も、なりをひそめていた。 彼は落ち着いてみせているが、どこか戸惑い、悩んでいるように見えた。








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