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アンコール!  55 逃げた先は



 馬車が向かったのは、高級住宅地の一つであるデューク・ストリートだった。
 十一番地の屋敷は、静かなたたずまいを見せていた。 右の家は豪華な正面飾りをつけていたし、左隣は玄関より大きな半円階段を誇らしげに突き出していたが、ハムデン子爵邸にはそんな大げさな装飾部は一切なく、淡々とした階段が黒っぽい扉にまっすぐ続いていた。
 初めて見るハリーの館だ。 スカートを持ち上げて段を上がる足が、緊張でいくらかしびれた感じがした。
 屋敷内には人がいるようだ。 二階の窓にふたつ、明かりが見える。 ハリーが家にいてくれることを祈りながら、ヘレナはしずくの形をしたノッカーを持って、ドアを叩いた。


 あまり待たずに、大きな扉が静かに開いた。
 玄関広間には充分な照明が灯っていて、ヘレナが思わず目を細めたほど明るかった。
「どちらさまですか?」
 落ち着いた低い男の声がした。 逆光なので顔立ちはよく見えない。 おそらく四十代の男性で、執事だろうと思われた。
 ヘレナはフードを少しずらして顔を見せ、必死で頼んだ。
「ヘレナ・コールといいます。 至急ハムデン子爵にお目にかかりたいの。 ご在宅ですか?」
 執事は目を伏せ、分厚い瞼の下から、失礼のない程度にヘレナを観察した。 それからドアを大きく開いて、中に通した。
「こちらで少々お待ちください」


 招き入れられてみると、前に立って歩いていく男性の背中は硬く張っていて、並みの執事というより用心棒のような体格をしていた。
 緊張していたので周囲に目を配る余裕はなかったものの、玄関広間がすっきりした上品な趣味で飾られているのは、なんとなく見てとった。
 やがて案内されたのは、広間の突き当たりにある居心地のいい客間だった。 壁紙は最近人気のある淡い緑で、柱や垂木には白い縁取りが入り、暖炉と天井には揃いの蔓草〔つるくさ〕模様が配置されていた。
 ハリーは謙遜していたけれど、トマスとあまり変わらないぐらい財産家なのね──最新流行を控えめに取り入れた客室を見て、ヘレナは次第に自信がなくなってきた。
 何不自由なく暮らしている若くてハンサムな貴族が、下っ端女優の自分などを本気で相手にするだろうか。
 会うたびに誘ってくるのは、ただの冗談か社交辞令だったのかも……。


 五分ほど待たされている間に、ヘレナは半ば諦めて、次の逃げ道を考えはじめていた。
 ここが駄目なら、サイラスさんのところに行こう。
 ヘレナには奥の手が、まだ一つ残っていた。
 ここを出るなら、真夜中にならないうちのほうがいい。 七度目か八度目に、暖炉の上に乗った繊細な作りの置時計を確かめたとき、扉が開いた。
 そして、優雅な室内着に身を包んだハリーが、大股で入ってきた。







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