表紙目次文頭前頁次頁
表紙

アンコール!  54 夜の逃亡劇



 楽屋口には相変わらず、花束や贈り物の箱を持った男たちが数人たむろしていた。
 彼らに引きとめられ、腕を組んで帰っていく女の子を、待ちぼうけの男連中が冷やかす。 迎えのない下っ端女優や踊り子たちは、いつものグループに分かれて、そそくさと夜道に散らばって行った。
 ヘレナも、途中まで道筋が同じドリー・マーシャルと寄り添って、道を急いだ。
 角まで来たとき、薄暗い建物の外れの窪みで、影が動いた。 立てたコートの襟で顔を隠しながら、ヘレナは横目を使ってその方角を盗み見た。 そして、影の正体が、さっきジョナスと一緒にいたネズミ野郎だと気づいた。
 見張られている!
 期限の明日までヘレナが逃げ出さないよう、ジョナスが手下に命じて尾行させているらしい。
 ヘレナはゾッとした。 これで確信が持てた。 ジョナスは本気で、結婚するつもりなのだ。
 とっさに作戦を決めて、ヘレナはおとなしいドリーに笑いかけ、いつものように世間話を始めた。
「参ったわよ、また野菜の値段が上がっちゃってさ」
「このところ、ずいぶん冷えてきたからね〜。 畑も凍えてるんじゃないの?」
「豆の缶詰でも買うしかないかね〜」
 心細かったので、ドリーの住まいが近づいてくると、別れるのが早すぎる気がした。
「じゃ、また明日」
 しぶしぶ言うと、ドリーにぽんと肩を叩かれた。
「なんだか元気ないじゃない? 新作が当たればボーナスをはずむって監督が言ってたよ。 だから明日もがんばろう」
「うん、おやすみ」
「おやすみ」
 たぶん新作にはもう出られない。 だからボーナスも関係ないんだ。
 そう気づくと、わびしい気持ちになった。 ヘレナは、どうしても重くなる足をはげまして、一人の道をたどった。


 初めは直接、ハリーの住む屋敷に向かうつもりだった。
 だが、尾行されているのでは危険すぎる。 それで、いったん下宿に戻り、裏口から抜け出すことにして、帰りを急いだ。
 その作戦は、なんとか当たった。
 二階まで静かに上り、外出着のまま灯りをつけて食事をした後、ヘレナは走り書きでヴァレリーに手紙をしたためて、居間のテーブルに置いた。
 それから自分用の寝室に行って、最小限の荷物をまとめた。 布の鞄にぎっしり詰め込んだ後、カーテンの陰から下の道を見下ろすと、街灯に寄りかかっているひょろりとした姿があった。
 あいつ、まだ見張ってる── ヘレナが舌打ちしかけたとき、若い男は不意に身を起こし、下宿屋を一度見上げて部屋の灯りを確かめてから、くわえ煙草を足元にポイと捨てて、のんびり歩き出し、すぐに見えなくなった。
 ヘレナはほっとして、笑いを浮かべた。 ジョナスの奴、金持ちのくせにケチで、徹夜で見張るほどの金を手下にやらなかったようだ。


 三分後、ヘレナは下宿屋の勝手口からこっそり庭に出た。
 裏木戸を開けるとき、念のため狭い道を端から端まで見渡した。 あの手下の気配はない。 いつの間にか湿った濃い霧が降りてきているのも、こっそり忍び出るにはいい条件だった。
 ヘレナは外套を体にきつく巻きつけ、ショールで半分顔を隠して、鞄の持ち手をしっかり掴むと、細い道を通り抜け、広小路で流しの辻馬車が現われるのを待った。







表紙 目次 前頁 次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送