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表紙

アンコール!  50 新たな事情



 だが、さすがサイラス。 ヘレナが思わず手を伸ばして慰めようとすると、上体をまっすぐ起こして、触れられるのを拒否した。
「大丈夫だ。 ただちょっと驚いただけのことだ」
 それから素早く立ち上がったが、手が小刻みに震えているのは隠せなかった。
「昔の話だ。 もう遥か昔の」
 ヘレナは黙ってうなずいた。 サイラスが心の古傷を隠したい気持ちは、よくわかる。
「それじゃ、また土曜日に」
 別れの言葉を聞いて、サイラスはハッと思い出した。
「そうだ、今日は木曜だ。 君の給料日じゃないか」
「あら」
 ヘレナ自身もすっかり忘れていた。


 金を手にしたヘレナを、サイラスは珍しく玄関先まで送って行った。
「ふところが温かいと狙われやすい。 いつも以上に気をつけるんだよ」
「そうするわ」
 笑顔で答えたものの、大きな外門を細く開けて道に出るとすぐ、ヘレナは振り向かずにいられなかった。
 視線の先に見えたのは、小さなランタンをかかげて入っていくサイラスの後ろ姿だった。 いつも姿勢がいいのに、今夜は肩を落として前かがみになっている。 初めてヘレナは、サイラスに孤独な老人の影を見た。




 下宿の階段を上りきると、足が棒のようになった。
 今夜は本当に疲れているんだな、と実感した。 早く部屋に入って靴を脱ぎ、足を暖炉で暖めながら揉みほぐしたい。
 敷居に爪先を引っかけそうになりながら、ヘレナは扉を開けた。 そして、驚いて立ち止まった。
 外からは見えなかったが、蝋燭が灯っていた。 この下宿屋は二階までガスを引いているものの、上は昔のまま、蝋燭かランプを使う。 ヴァレリーは短くなった蝋燭をテーブルに置いて、折りたたみ式の鏡で光が外に洩れないように囲っていた。
「まだ起きてたの?」
「というより、一眠りした後なの。 どうしてもあなたと話したくて」
 その気持ちはよくわかる。 しかし、ヘレナはくたくただった。
「婚約おめでとう」
「ありがとう」
 質素な寝巻きにガウンとショールを重ねた姿で、ヴァレリーはヘレナと堅く抱き合った。
「着替えを手伝うわ。 お湯を沸かしてあるの。 暖炉もついているし。 ベッドかあの椅子に座って、お湯に足をつけながらココアを飲めば、ゆったりできるでしょう?」
 まさに至れりつくせりだった。 かいがいしくヘレナの世話をした後、暖炉の前で椅子にはまりこんだ彼女に膝掛けを置いてから、椅子の前の床に、ヴァレリーは小さな敷物を持ってきて座った。
「眠いわよね。 手短に話すわ。
 さっきトマスがここに来たの。 そして、私が結婚まで、どうしてもあなたとここに住むと言ったら、せめて部屋だけは変えてくれって、二階の広い部屋に入るよう説得されちゃったのよ」
 ヘレナは目をむいた。
「二階の家賃は、ここの三倍よ」
「わかってる。 でもトマスは、こんなすりへった階段で足でもすべらせたら僕が困る、と言い張って聞かなかったの。
 家賃は彼が払うって。 お供についてきた従僕の人が、三か月分前払いしちゃったわ。 おかみさんはホクホクでね、私にも優しかった」
「それはそうでしょう。 でも私まで部屋代をおごってもらうわけには……」
「どうして? 私が無事でいられるのは、みんなあなたのおかげなのに!」
 無邪気なヴァレリーの瞳を見て、ヘレナは返す言葉を失った。







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