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表紙

アンコール!  47 生活は続く



 しおれたヘンリーを、ヘレナは鉄道の駅まで送っていった。
 結局求婚の言葉を口に出せなかったヘンリーは、もうヘレナに会いに来ることはないだろう。 彼は気前がよかったし、性格も温厚だった。 こんな形でお別れかと思うと、ヘレナのほうも寂しい気持ちになった。
「これが最終列車ね。 間に合ってよかったわ」
 もうもうと煙を吐く機関車にヘレナが気を取られていると、不意にヘンリーが手を取って、手袋の上からキスした。
「一ヵ月後にまた上京する予定だ。 そのときにまた、運を試してみるよ。 君が浮き沈みの多い芝居の世界に、嫌気がさすかどうかね」
「まあ、ヘンリー」
 どことなく嬉しい気持ちで、ヘレナも彼の手を握った。
「じゃ、元気で」
「またね」
 笑顔で別れられて、二人ともほっとしていた。


 それにしても、今夜は石炭が湿っていたのか、汽車の煙がものすごかった。 きっと鼻の中が真っ黒だわ、と苦笑して顔の汚れを洗い落とし、着替えて冷えたベッドに入ろうとして、ヘレナは気づいた。
 シーツの中に、布でくるんだ湯たんぽが入っていた。
 ベッドに腰をおろした状態で、ヘレナはしみじみと、横で熟睡しているヴァレリーを眺めた。
 本当に優しい、気配りのある人だ。 自分だって立ち詰めで働いて疲れているのに、遅く戻ってくるヘレナのために湯たんぽを探し、余分に湯を沸かして、足元を温めておいてくれたのだ。
 部屋のコンロは小さく、湯たんぽ二人分を沸かすには一人分の倍以上の時間がかかるはずだった。
 こんないい人だもの、大事に思われて当然だ、とヘレナは思い、トマスの眼力に心の中で拍手を送った。 彼の申込みがうまくいったのは間違いない。 ヴァレリーの寝顔は、幸せで光り輝いていた。


 翌日の昼、ヘレナの予想は裏付けられた。
 いつものように目を覚ますと、テーブルの上に手紙があった。 ヴァレリーからの書付だった。
『昨夜、トマスが求婚してくれました。 まだ信じられない気持ちですが、指輪を見るたびに、ああ、本当なんだと胸が熱くなります。
 まだ発表はしません。 知らせるのはあなただけ。 ぎりぎりまで働きつづけるつもりなので、まだしばらくここに泊まっていいですか?』
 婚約指輪か── 紙を畳みながら、ヘレナは感慨にふけった。 ヴァレリーをこの部屋に招いて、都会の落とし穴からいくらかでも守ってあげられて、よかったと思った。


 その日は、サイラスの家に行く日だった。
 遅くなるため、またヴァレリーと話す時間が取れない。 ヴァレリーのほうもヘレナに相談したいことが沢山あるだろうに、と、歯がゆい気持ちで、芝居がはねるとすぐ、ヘレナは夜の街に出た。
 その晩は遅刻どころか、少し早く着いたため、サイラスはご機嫌だった。
「早めに来るのなら、いつでもかまわんよ。 それだけ早く終わるからな」
「これが精一杯よ、サイラスさん。 芝居の時間は決まっているんだもの」
「まあ、それはそうだ」
 事務能率のたいへんいいサイラスは、書類をきちんと揃えていて、すぐ仕事にかかった。
 ヘレナもてきぱきと手紙や受取状、納品書を読んでいき、いつもより半時間も早く終えてしまった。
「手際がよくなった。 学べるのはよいことだ」
 珍しくサイラスが褒めた。 彼が明るい気分でいるうちに、簿記のほうもどんどん教えてもらって、少し早退させてもらおう。 そう考えたヘレナは、いそいそと帳簿を出して、自分用のペンの準備にかかった。
 鵞ペンをけずり直していると、サイラスが眉を寄せて尋ねた。
「ところで、同室の友人はどうなった?」
 ヘレナはためらった。 ヴァレリーの手紙には、まだ世間に発表しないつもりだと書いてあった。
「えぇと、サイラスさん、話していいかどうか、ヴァレリーに訊いてみないと」
「ということは、もう婚約したんだな?」
 サイラスは、ずばりと言った。







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