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表紙

アンコール!  46 申込み未満



 その夜、ヘレナが舞台を終えて帰ってくると、ヴァレリーはぐっすり眠っていた。
 いつもと変わらない姿だ。 だからヘレナのほうもいつもどおり、ヴァレリーを起こさないよう爪先立って部屋に入り、静かに着替えた後、エッグノッグを暖めて、冷えた喉に流し込んだ。


 夕飯はヘンリー・ステートがおごってくれた。 彼は今日の午後、故郷に戻る予定だったが、どうしてもその前にヘレナと食事がしたくて、出発をわざわざ遅らせていた。
「僕はただの田舎地主さ。 わかってる」
 居心地のいい中級のレストランで、ローストラムを平らげながら、ヘンリーは珍しく真面目な顔で言った。
「でも君への気持ちは真剣だ。 この辺りの遊び人たちと違ってね」
 いつもと雰囲気が変わっている。 ヘレナは愛想よく耳を傾けながら、用心しはじめた。
「君も普通の女優とは違う。 身持ちが固いことは、周りの評判でわかっているんだ。
 だいたい、君は本当に女優という仕事が好きなのか? 生活のために、しかたなくやってるような気がするんだ、僕には」
「さあ、どうかしら」
 口にしていたヒラメのフィレの味が薄れはじめた。 ヘンリーは厄介な状態になってきている。 いつもの陽気な態度でなくなったのは、雨の中、ハモンド子爵ハリーがヘレナを彼の鼻先からかっさらったせいに違いなかった。
「ねえ、そんな深刻な話は止めましょうよ。 次はいつ会えるかわからないんだし、楽しく食べましょう」
「あの男は確かにハンサムだし、金も持っていそうだ」
 かまわずに、ヘンリーは話し続けた。
「でも、あいつは本気にはならない。 僕は君をただの遊び相手にさせたくないんだ」
 だんだん激していくヘンリーに、ヘレナは初めて危機感を持った。 ちゃんとなだめておかないと、彼は取り返しのつかないことを言い出しそうだ。
「あの男って、傘を貸してくれた人のこと? 彼はただの舞台ファンよ。 貴族だから、自分の思うようにしないと気がすまないだけ。 あのときは、気分を悪くしたでしょう? 申し訳なかったわ」
 ヘンリーは納得するどころではなかった。 むしろきっかけを待っていた感じで、急にフォークを置くとヘレナの手を取り、懸命に訴えかけた。
「これまでは言い出せなかった。 僕は平凡だし、都会の金持ちに比べたら財産だって大したことはない。 でも真面目だ。 それだけは誓って言える。
 ヘレナ、僕の心は君で一杯だ。 もし君が……」
 思いがけず、ヘレナの鼓動が激しくなった。
 押し止めていた本能の願いが、脳裏に素早くひらめいた。 静かでゆったりした住まい、優しい夫、はしゃぎ回る子供たちのかわいい声……。
──そんなものを望む前に、あんたは何を告白しなきゃいけないの?──
 良心の冷たい声が、空中楼閣を朝霧のように吹き飛ばした。
 ヘレナは反射的に姿勢を正し、大きな眼をまたたいて、誠実な地主を悲しげに見返した。
「ハリー、いけないわ。 一時の感情で深みにはまりこんだら、どうするの?」
「深み? そうじゃない! ヘレナ、お願いだから」
「落ち着いて。 私は、あなたがこの町に出てきたときの愉快な食事仲間。 それでお互いうまくいってたじゃない? 私には仕事があるし、あなたにもある。 そして仕事はいつも楽しくはないけど、大切なものだわ」
 ヘレナが女優をやめる気がないと仄めかされて、ヘンリーは黙り込んだ。







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