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表紙

アンコール!  45 遅れた訳は



 外は、もう真っ暗だった。 店は次々と灯りを消していたが、人通りはまだある。 むしろこれからが、夜の遊びの時間なのだ。
 書店の前に立って、ヴァレリーは襟元をかき合わせながら、周囲を見渡した。
 トマスの姿はなかった。 彼の馬車が停まっている気配もない。
 下宿のほうで待っているのだろうか。
 もう一度、よく見回した後で、ヴァレリーは歩き出した。 ふるえる胸の高鳴りは、まだ残っていた。


 半時間ほど歩くと、ストランド大通りが見えてきた。 下宿があるのは、この広い通りの外れだ。
 家が近づくにつれ、ヴァレリーの足取りは次第に遅くなった。 昔は富豪の邸宅だった下宿屋には、広い馬車寄せがついている。 だが、そこにも、家の近くにも、馬車や馬の姿は見当たらなかった。
 伯爵はまだ来ていない。
 不吉な予感は、どんどん強くなった。 ヴァレリーは一縷〔いちる〕の望みを託して、玄関を入るとすぐに脇の廊下を曲がり、女主人が下宿人用接客室に使っている応接室を覗いた。
 そこは、がらんとしていた。 丸テーブルと古びた椅子、ばねの利かなくなったソファーとが、忘れられたように並んでいるだけだった。


 二十分後、ヴァレリーは四階の部屋で、がたつく椅子に座り込んでいた。
 コートと手袋を脱いだだけで、まだ外出着のままだ。 すっぽかされたらしいと、頭ではわかっていても、気持ちが認めるのを拒んでいた。
 ともかく、礼儀正しいトマスのことだ。 衝動に駆られて求婚したのを、すぐ後悔したにしても、そのまま黙って消えるはずはない。
 丁重な断りと詫びの手紙ぐらいは、きっと送ってくれるはずだ。
 そう思って、着替えずに待っていることにした。 まだかすかに期待の糸をつないでいることを、自分にも認めたくなかった。


 一時間が容赦なく過ぎ去っていった。
 ヴァレリーはその間、椅子に腰掛けたままだった。 昼間の疲れもあり、背中は板で挟んだように凝っていたし、足は疲れで靴が脱げないほどむくみ始めていた。
 食欲はまったくなかった。 戻ってから、水一杯口にしていない。
 やがて、時計が壊れて動かない室内に、外から教会の鐘の音が伝わってきて、十時になったとわかった。
 立たなくちゃ、と、ヴァレリーは自分に命じた。 立って服を着替え、せめてパンの一口でも食べておかないと、明日の仕事にさしつかえる。
 のろのろと腰を上げると、緊張をしいられていた膝が強ばって、しびれていた。 脚をさすりながら、年寄りのように体を曲げて何歩か歩いたとき、カチッという小さな音が耳をついた。


 ヴァレリーは素早く顔を上げた。
 音がどこから来たのか、最初は見当がつかなかった。 だがすぐ続いて、似たような音がしたので、窓に何かが当たっているのだとわかった。
 ヴァレリーはできるだけ早く、窓辺に向かった。 そして開き窓を両手で押し開けた。
 すると、はるか下の街路で、弱い街灯の光にぼんやりと照らされ、黒いマントの影が立っているのがわかった。
 黒い影は、開いた窓にヴァレリーの姿が現われた直後、シルクハットを取って深々と頭を下げた。 目鼻立ちははっきり見えなくても、その優雅な動作と体型は、まぎれもなくラルストン伯トマスにまちがいなかった。


 息が止まりそうになって、ヴァレリーは口に手を当てた。
 それから、下に挨拶を返すのも忘れ、身をひるがえすと走り出した。
 一気に自室を出て、三つの階段を流れるように下り、玄関扉に飛びついた。 手がふるえて、なかなかノブが回らない。 二度失敗して、三度目にようやくドアを開けることができた。


 トマスは、さっきの位置に立ち尽くしていた。 帽子を手に持ったままで、こちらを見ていた。
 ためらいを感じさせる姿勢だった。 しかしヴァレリーは白けなかった。 トマスが来てくれた、何を言うにしても手紙ではなく、自分の足で会いに来てくれた、というだけで、ただもう嬉しかった。
 だから夢中で走り寄った。 そして、気づいてみると、両腕で彼を固く抱きしめていた。
「来てくださったのね!」
「ヴァレリー ……」
 低くつぶれた声が、大気と厚い胸の両方から響いてきた。
 次の瞬間、ヴァレリーは苦しいほど強く、思い切り抱き返された。
 こめかみの辺りで、彼の息が熱くそよいだ。
「すまなかった。 ピカデリーで馬車の事故があって大混雑になり、前にも後ろにも進めなくなってしまったんだ。 抜け出すのに鞭を使わなければならなかった。 それでもこんなに遅くなってしまって」
 そうだったの…… ── ヴァレリーの胸に、熱く優しいものが、じわじわと広がった。
「あやまらないで。 貴方のせいじゃないわ」
「でも詫びたい。 こんな大事なときに、よりによって」
「いいの。 来てくださっただけで嬉しいわ。 私……」
 ヴァレリーはトマスの胸から顔を上げて、彼の謝罪を押し止めようとした。
 すると、斜めから街灯の光が当たり、横顔に美しい陰影ができた。 そのため、ただでさえ清純なヴァレリーの面立ちが、まるで天使のフレスコ画のように輝いた。
 トマスは震える息を吸い込んだ。 そして、我を忘れて前かがみになると、夢中で唇を重ねた。 ヴァレリーがすべての言葉を言い終える前に。








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