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44 忙しい一日
翌日、昼近くに目覚めたヘレナは、食事の用意が出来たテーブルの上に、ヴァレリーの伝言を見つけた。
『昨夜はありがとう。 勇気をもらいました』
ほんとにいい人ね、と呟きながら、ヘレナは筋肉痛の足をかばいつつ、顔を洗いに小さな洗面台に近づいた。
水差しの水は、もうずいぶん冷たくなっていた。 冬が近づいてきている証拠だった。
朝昼兼用の食事を終えると、ヘレナは出かける時間まで忙しく過ごした。
まず、次に上演する芝居のセリフを覚える。 それから昨夜習ったばかりの簿記の復習と整理。 そして冬物の衣類の点検。
きちんと手入れしてあっても、よく見ると古びているドレスを膝に置いて、ヘレナは思いにふけった。
ヴァレリーへの結婚祝は何がいいだろう。
これからは何でも買ってもらえる身分になる親友に、贈って喜ばれるものは……。
小さな部屋を見回した目に、ひっそりと置かれた紙束が入った。
ヴァレリーのお祖母さんの大事なスケッチだ。
そうだ、あれが入る画板帳を作ろう!
思いついた次の瞬間、教会の鐘の音が耳に飛び込んできた。
いつもより少し早いけど、出かけよう。 食料だけでなく、贈り物の材料も必要だから。
予算が限られていても、買物は楽しい。 ヘレナは少しうきうきして、手早く着替えて部屋を出た。
その日は、めまぐるしく空模様が変わった。
朝の十時頃までは薄日が差していたのに、雲が湧き出してきて通り雨がザーッと降り、正午あたりにいきなり晴れて、気温が二十度近くまで上がった。
十月のロンドンとしては珍しい暖かさだった。 太陽の輝きと気温のおかげて、午後には街に人々が繰り出し、店や公園が大いににぎわった。
ヴァレリーの勤める本屋にも、普段の五割増しの客が訪れた。 忙しく応対する間に、ヴァレリーは何度も前の道路に視線をやった。
終業時間に来る、とトマスははっきり約束したのだから、まだ現われるはずはないのに、どうしても目が行ってしまう。 そして、話がうますぎる、きっとすっぽかされる、という悪魔の囁きが頭を離れなかった。
やたら長く感じられた就業時間が、ようやく終わりに近づいた頃、ヴァレリーは身も心もへとへとになっていた。
もう店のドアは閉まり、店内でのまとめ作業にかかっているところだ。 万引きされた商品がないか、売上の計算は合っているか、店主と細かく調べる。 これまで売上金が不足したことはないが、今日は嫌な予感がする。 とてつもなくいいことが起きる日は、悪いこともドカンと起きそうで……。
息を詰めて数え終わったとき、ヴァレリーは無意識に大きな溜息をついてしまった。 金額は、ぴたりと合っていた。
「明日は木曜だが、休みじゃないよ」
気ぜわしく手袋をはめるヴァレリーに、店主が声をかけた。
「はい、覚えてます」
返事する声が緊張で上ずっていた。 ヴァレリーの休みは隔週の木曜日。 先週休んだので、今週は普段通り出勤する日なのだった。
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