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アンコール!  43 眠れなくて



 もう日付はとっくに翌日になっていた。
 だが、ヘレナがやっこらさと四階まで上がると、ヴァレリーはまだ起きていて、寝巻きの上にショールを巻きつけて出迎えた。
「おかえりなさい」
「ただいま。 外はしんしんと冷えてきたわよ。 あなたも風邪引かないように、早く寝ないと」
 ヘレナが優しくたしなめると、ヴァレリーは心もとない笑顔になった。
「どうしても眠れないの。 心臓がばくばくして、落ち着いて横になっていられなくて」
 そう言いながらコートを脱ぐのを手伝ってくれるヴァレリーに、ヘレナは一刻も早く、賢人サイラスの言葉を聞かせたいと思った。
「あのね」
「なに?」
「サイラスさんは、なぜかラルストン伯爵について詳しいみたいなの」
 ヴァレリーの手が止まった。
「……そうなの?」
「ええ。 普通の貴族は信用できないらしいけど、伯爵は別だと言っていたわ。 彼が求婚したら、それは本気だって」
 とたんにヴァレリーは、脱がせたばかりのヘレナのコートを抱きしめた。 まるでそれがトマス自身のように。
 そして、そのままベッドによろめいていって座り込んだ。 涙が二筋、長い睫毛を伝って頬にこぼれ落ちた。
「ねえヘレナ?」
「なあに?」
「私、あの人に恋してるの」
 ヘレナは胸を打たれた。 これまでヴァレリーは常に遠慮深く、トマスを本当はどう思っているのか、態度に出したことがなかったのだ。
 ヘレナが傍に座ると、ヴァレリーはコートをひっくるめて友を抱きしめ、肩に額をつけた。
「夜道で初めて逢ったときに、どきっとしたの。 不思議な感じだった。 何かが胸の中で躍っているような。
 あの人が本屋に来たとき、嬉しかったわ。 そして、ヴォクソールに行こうと誘われたとき……ああ、これで夢が叶ったと思った。 あの人と過ごす一日。 一生の思い出になるって」
 いいなぁ── 聞いているヘレナの眼も湿ってきた。 彼女には、恋をした覚えがなかった。 人にあこがれたことも、誰かが傍に来て胸が高鳴った記憶も。
「わかるでしょう? 一緒にいるだけで最高だったの。 それが、け……結婚だなんて。 すばらしすぎて、怖いの。 怖くて仕方がないの」


 この人のそういうところが、トマスの心を掴んだのね── サイラスの話と考え合わせて、ヘレナは納得が行った。
 以前、トマスは冷酷な女にひどい仕打ちを受けたという。 たぶんその女は計算高かったのだろう。 彼を結婚の罠にはめようとしたのかもしれない。
 それに対して、ヴァレリーは計算のかけらもない人間だ。 正直で誠実で、献身的。 まともすぎてはらはらするほどだが、この場合は、その誠実さが幸運を呼んだ。
 ぎゅっと細い肩を抱き返して、ヘレナは耳元で囁いた。
「サイラスさんは偏屈〔へんくつ〕だけど、ウソは言わないわ。 お世辞も絶対に言わないしね。
 さあ、これで眠れる?」
 泣き笑いしながら、ヴァレリーは答えた。
「やってみるわ」







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