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アンコール!  42 事情通の謎



 サイラスは珍しく落ち着きを失った様子で、白髪頭に手をやった。
「あのラルストンが、そんなことを……。 驚きだな」
「あのラルストンって?」
 ヘレナが素早く訊いた。 サイラスは一瞬迷ったが、やがて決断をつけて説明した。
「あの男は、昔ひどい目に遭っているんだ。 冷血な女に騙されて」
 彼の口調は、いつものサイラスにも増して、苦さに満ちていた。 そのとき、ヘレナはふと思った。 サイラス自身も、どこかの女に手ひどく裏切られたことがあったのかもしれないと。


 それにしても不思議だった。 サイラスが商売上、精密な情報網をかかえているのは想像がつく。 だが伯爵という身分の高い男性の過去まで、どうやって探り出したのだろう。
「すごいわねサイラスさん。 社交界の闇まで知っているなんて」
「彼は特別だ」
 サイラスは暖炉の傍の椅子に腰をおろし、燃え上がる炎をじっと見つめた。
「事情はこれ以上話せん。 だが」
 言葉が途切れた。
 ヘレナは少し待って、しびれを切らした。
「だが、何?」
 サイラスの右手が固く握られた。 拳の関節が白くなるほど力が入った。
「わしがさっき言ったことは忘れてくれ。 ラルストン伯爵が求婚したのなら、それは本物だ」


 結局、ヘレナの減給は、遅刻分の一シリングだけで済んだ。
 思いがけない会話の後、サイラスはなんとなく上の空になったが、仕事はきちんと終わらせた。 そして、ヘレナに対する簿記の授業もしてくれた。
 帰り際、護身用の拳銃をちゃんと持っているかどうか、いつものように確かめさせた後、サイラスは何気なくヘレナに尋ねた。
「君は伯爵に会ったことがあるのか?」
 コートのボタンを留めながら、ヘレナはすぐ答えた。
「ええ、あるわ。 ヴァレリーと伯爵たちと四人で、ヴォクソールへ遊びに行ったこともあるのよ。 昼間に一回だけだけど」
「四人だと?」
 サイラスは眉をひそめた。
「あと一人は誰だ?」
「伯爵の友達。 ハムデン子爵よ」
 とたんに、息を引く音がした。 ヘレナはけげんそうに顔を上げた。
「子爵のことも知ってるの?」
「いや、それほどよくは知らん」
 部屋の出口前で並んで立っていたサイラスは、なぜかもう一度、穴があくほどヘレナの顔を見つめた。
 それから、ヘレナが驚いて引っくり返りそうになったことをした。 自らドアノブを回して、彼女のために扉を開けたのだ。
 無意識にやったのかもしれない。 だが、サイラスに丁寧にされたのは、これが初めての経験だった。
「今日はいつもより半時間遅くなった。 物陰によく気をつけなさい」
「ええ、ありがとう」
 なんだか妙な気分で、ヘレナはいつものように蝋燭一本で照らされている暗い広間を抜け、更に真っ暗な闇夜の中を、小さな影となって下宿へ急いだ。







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