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アンコール!  41 意外な態度



 足の疲れも忘れて、ヘレナは飛ぶように走り、月のない闇夜の中、不気味に立っているサイラスの豪邸に駆け込んだ。
 事務室では、長身のサイラスが背後で手を組み、前かがみになってせわしなく歩き回っていた。
 息を切らせながら入ってきたヘレナを見ると、サイラスのげじげじ眉がぎゅっと鼻の上に寄って、一本につながった。
「遅い」
「はい」
 わざとらしく顎をしゃくって壁の時計を見つめた後、サイラスは宣言した。
「十一時から十一時半の間に来ることになっているはずだ。 半時間も余裕があるんだぞ。 それに遅れるとは。
 一シリングの減俸。 それに、遅刻の罰としてもう一シリング、給料から引く」
「二シリングも?」
 ヘレナはげんなりした。 だが、異議は唱えなかった。 サイラスのケチは趣味の域に達している。 抗議しても、相手は理屈をこねるだけで時間の無駄だ。
「はい」
 おとなしく言ってコートを脱ぎ、さっそく机に近づいて、読む準備をした。
 サイラスは寄せた眉の下から、きびきびと支度をするヘレナを眺めた。 それから低く咳払いした。
「遅れた理由を言わないのか? もし納得が行ったら、罰の一シリングは取り消すかもしれないぞ」
 おや、珍しい。
 ヘレナは笑顔をこらえ、手を膝にそろえて真面目に答えた。
「下宿に帰ったら、部屋を共同で借りている友達が大変なことになってたの」
 サイラスの眼が鋭くなった。
「大変な? 寝込んでいたのか? それとも怪我か?」
「いいえ。 結婚を申し込まれたんですって」
 たちまちサイラスは顔を強ばらせた。
「そのどこが大変なんだ!」
 ヘレナは平気で説明した。
「そりゃ大変よ。 相手は貴族なんだから」
「ふーん。 ばかばかしい」
 そう言い放った後、驚いたことにサイラスは、いきなり笑い出した。
 しわがれた、奇妙な笑い声だった。 あまりにも長い間、喉からそんな音を出したことがなかったので、粘膜に張り付いてしまったかのようだ。
「安下宿の家賃も一人で払えないような娘に、貴族が求婚? 出まかせにきまっとる。 誘惑の手段にすぎん。 のぼせて騙されんように、しっかり言ってやりなさい」
 寒い夜だったが、部屋は充分暖められていた。 だからヘレナは、書類が読みやすいように手袋を外しながら、静かに答えた。
「私はそうは思わないわ。 彼は本気よ」
 サイラスは音を立てて椅子を引き、どしんと座った。 強い眼が、まばたきもせずにヘレナを見つめた。
「その馬鹿貴族は、どこの何という奴だ?」
 ヘレナは澄んだ眼差しで、まっすぐ彼を見返した。
「調べるつもり?」
 サイラスは唸った。
「質問に質問で答えるんじゃない。 さあ、名前を言いなさい」
 慎重で賢い彼が、ヴァレリーやトマスに迷惑をかけるとも思えない。 ヘレナは教えることにした。
「ラルストン伯爵よ。 トマス・ウェイクフィールド」


 サイラスは、少しの間無言だった。
 それからいきなり立ち上がり、分厚いカーテンで閉め切った窓に近づくと、ほんのわずか隙間を作って外を覗いた。
 ヘレナは、そんな彼の姿を目で追った。 なぜ警戒しているのか。 そうとしか見えない意外な態度だった。
 戻ってきたサイラスに、ヘレナは問いかけた。 無意識に、小声で。
「ねえ、どうしたの?」
 ひとつ大きく息を吐くと、サイラスは訊いた。
「その娘と伯爵は、いったいどこで知り合った?」
 ヘレナは唇を噛み、言い返してやった。
「質問には質問で答えちゃいけないんでしょう?」








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