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表紙

アンコール!  40 謙虚すぎて



 ヘレナは、あっけに取られた。
「どうして! 伯爵が好きなんでしょう?」
「ええ。 だから、おびえてしまって」
「おびえる?」
 こんな歯がゆいことはなかった。 ヘレナは目の前ですすり泣いているヴァレリーの肩を掴んで、揺すぶってやりたくなった。
 だがその代わりに、ヘレナは相手の髪を撫でつけ、できるだけ優しく説得した。
「トマスはよっぽど誠実な人なのね。 プロポーズしなくても、女は口説けるのに。 それをしなかったなんて、彼は偉いと思う」
「でも……でも私達、キス一つしたことがないのよ」
 涙ながらに、ヴァレリーは告白した。
「それが突然求婚だなんて」
 これにはヘレナも驚いた。 一度の遊園地デートと数回の『偶然の』出会いだけで、伯爵ともあろう人が、結婚を決めたというのか。
 ヴァレリーの涙声が、後を続けた。
「もう待てないっていうのよ、あの人。 訳がわからない。 私のどこが、貴族の奥方にふさわしいっていうの?」
 性格と美しさでしょう。
 ヘレナにはわかっていた。 だが、当たり前すぎてかえって陳腐な、そんな言葉を口にする勇気がなかった。
 世間は、もっと別の力学で動いているはずだ。 家柄、持参金、親の権力、などなどで。
「彼はあなたを愛しているのよ」
 ヘレナがハンカチを渡すと、ヴァレリーは目を拭いた後、顔を覆った。
「そうね、なんとなく感じていたわ。 だからって、その愛が続くとは限らない。 燃え上がって、すぐ冷めるかもしれない」
 求婚するほどの情熱が、そう簡単に消えるとは思えなかった。
「冷めるのは遊び相手のときよ。 プロポーズには覚悟が要るわ。 特に、あなた自身しか差し出すものがない場合はね。 伯爵は本気だわ」
 ヴァレリーはハンカチを顔から離し、あらたまった口調になった。
「私は夢を追う性格じゃないの。 子供のときから現実的だった。 うますぎる話には裏があるものなのよ」
「どんな?」
 聞き返されて、ヴァレリーは言葉に詰まった。
「えぇと、誰か他に本命がいて、その人に振られて当てつけるためとか」
「だったら、むしろ名門貴族の令嬢を狙うんじゃない? ほら、こんな上流のお嬢様でも手に入れることができるんだって」
「ええ……」
 ヴァレリーの声が小さくなった。
「ただの店員じゃ、対抗馬にもならないわね」
 二人は顔を見合わせた。 それからほぼ同時に笑い出した。
「私、深刻に考えすぎたかしら」
 ヘレナは、わざと大げさにうなずいた。
「その通り。 正式な妻の座は、大きいものよ。 この国では簡単に離婚できないんだから」
 ヴァレリーは笑いを引っ込めて目を伏せ、ハンカチを小さく畳んだ。
「明日の終業時間に、また来ると言っていたの。 今度こそ、はい、と答えるわ。 まだ申し込む気持ちが失せていなかったら」
「気が変わるわけ、ないじゃない」
 ハンカチごと友の手を握ると、ヘレナはきっぱりと言った。
 それから、はたと気づいて慌しく立ち上がった。
「大変! サイラスさんに怒られる」
 ヴァレリーもおろおろして、続いて立った。
「わぁ、引き止めてごめんなさい! 急がなきゃ!」







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