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39 二人の悩み
「わあ、やっと小降りになったわ。 ひどい雨だったわね」
下宿の四階までやっこらさと上がったヘレナが、戸口で発した第一声は、そんな小さな叫びだった。
だが、自分用のベッドに座り込んだヴァレリーは、いつものように笑顔を向けることもなく、肩を丸めて動かなかった。
心配になって、ヘレナは湿ったコートを脱いで鉤にかけるのもそこそこに、家具を回り込んでヴァレリーの正面に立った。
「どうしたの? 帰り道でびしょ濡れになった?」
「いいえ」
戻ってきたのは鼻声だった。 ヘレナはますます不安になって、膝を曲げて友達の前にかがみこみ、うなだれた顔を覗いた。
「気分が悪いなら、横になったら?」
「そうじゃないの。 おなか空いたでしょう? 用意してあるわ」
ヴァレリーはしゃがれたままの声で答えた後、立ち上がろうとして、膝に載せた紙束を落とした。
ヘレナはすぐ拾い上げ、ヴァレリーに渡そうとした。 そのとき、紙一杯に描いてある市場の光景が目に入った。
「まあ、上手ねえ。 あなたが描いたの?」
「ううん」
ヴァレリーはかすかに微笑んだ。
「お祖母ちゃん。 コヴェントガーデンの近くで育ったから、思い出してよく描いていたの。 きっと懐かしかったんでしょうね。
ロンドンの風景だから、私がこっちへ出てくるとき参考になると思ったし、大事な形見だから持ってきたのよ」
「見せてもらって、いい?」
「どうぞ」
紙をめくるたびに、ヘレナは感心した。 記憶だけで描いたとは思えないほど、いきいきとした街の風景だ。 書き込まれた人々の服装が半世紀近く前のものなのが、かえって臨場感を高めていた。
「すごく才能があったのね」
「そうかしら。 私にはよくわからないけど。 でもお祖母ちゃんの絵は好きだった」
そう言う間も、働き者のヴァレリーの手は次々と料理を並べていた。
「今日は鶏肉が安く手に入ったの。 それにチシャとキャベツも」
「よかったわ、あなたが料理上手で」
熱心に絵をめくっていたヘレナは、急いで食べなければならないのに気づいた。 今日は火曜日。 サイラスのところへ行く日だ。
紙束をまとめて、そっと椅子の上に置いたとき、一番下の一枚がずれ落ちた。
急いで拾うと、それは若い男性の絵だった。
「ハンサムね。 あなたのお祖父さん?」
首を伸ばして絵を見たヴァレリーは、首を振った。
「ちがうわ」
それは、妙に歯に物がはさまったような答え方だった。 急いでいるヘレナは気づかなかったが。
しかし、食事を終えて後片付けに入ったとき、ヴァレリーが驚くべき告白をして、ヘレナは瞬時、出かけなければならないことを忘れてしまった。
「あの」
「なに?」
大きな眼をヘレナに向けて、ヴァレリーは一気に言った。
「求婚されたの。 さっき、雨の中で」
皿を拭いていたヘレナは、思わず取り落としそうになった。
「それってつまり……ラルストン伯爵に?」
「そう」
ヘレナはゆっくり皿を横に置いた。 一瞬、ほんの一瞬だが、胸が焼けるように苦しくなった。
私は誘惑されるだけなのに、ヴァレリーは正式な妻になってくれと言われた……
だがすぐ、そんな気持ちをゴミのように吹き飛ばすと、ヘレナはすぐ前にいるヴァレリーの肩を引き寄せ、ぎゅっと抱いた。
「おめでとう!」
とたんにヴァレリーは、しゃくりあげた。
「ありがとう。 でも……でも私、逃げてきたの。 どうしてもすぐに『はい』と答えられなくて、明日まで待ってくれって……言って……」
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