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表紙

アンコール!  38 同じ雨でも



 ヘレナがハリーと馬車に乗った同じ火曜日。 時間はもう少し早くて、夜の八時過ぎ。
 ヴァレリーは本屋での仕事を終えてコートを着込み、店主のバクスターに終業の挨拶をしてから外に出た。
 そのとき初めて気づいた。 午後から降っていた小雨が、だいぶ勢いを増している。 まだ大降りというほどではないにしても、一着しかない秋物のコートが濡れるのは防げなかった。
 しかたない、家に帰ったらアイロンをかけて、明日も着られるようにしよう。
 小さく溜息をつくと、ヴァレリーは水たまりができかけている舗道に足を踏み出した。
 その頭上に、すっと黒い影が出来た。 びっくりして見上げると、傘を差したトマスが真面目な顔で見下ろしていた。
「今日の雨は冷たい。 もうじき冬が来そうだね」
 冬……。 ヴァレリーは去年を思い出し、今の幸運をありがたく思った。 もう森へ行って、たきつけにする古枝を拾ってこなくてもいい。 水のようなオートミールをすすり、ショールを何枚も重ね着して、小さな暖炉に焦げるほど近づかなくていいのだ。
「わざわざ待っていてくださったの?」
「君が風邪を引いたらいけないから」
 一呼吸置いて、トマスは重い口調で付け加えた。
「妹は十一のときに、大雨に打たれて熱を出して死んだんだ」
「まあ」
 ヴァレリーは慰めの言葉もなかった。 田舎には珍しく一人っ子で育ったので、きょうだいを失う辛さは本当にはわからない。 それでも、トマスの兄としての衝撃と寂しさは想像できた。
 妹のことを言われては、傘を断りきれなかった。 ヴァレリーはできるだけ場所を取らないように身を細くしながら、しばらく黙ってトマスと並んで歩いた。
 すると、やがて彼のほうから口を切った。
「ご親戚の移住、残念だったね」
「ええ。 ただ、会えたとしても引き取ってもらえたかどうかわからないし」
「残念だが、そうかもしれない。 外国へ移るのは、たいてい生活に困ったときだから」
「ええ。 だから私、ヘレナには本当に感謝しているの。 都会の人は冷たいと思っていたけれど、あんなに親切で頼りになる人もいるんですね」
「彼女は特別なんだろう。 でも、口のうまい奴はいくらでもいるから、気をつけて」
 トマスは上の空で応じた。 何か他のことを気にかけているらしい。 傘を持ち替えたとき、足元の石につまずいて、転びそうになった。
 前のめりになった彼を、とっさにヴァレリーが支えた。 それで二人は、わずかの間抱き合う形になった。
 ヴァレリーの心臓が、たちまち跳ね上がった。 耳元に血流のうなりが押し寄せた。
 トマスの胸からは、湿った上等な生地の匂いがした。 それに、爽やかな香料の香りも。 これはたぶん、使った石鹸に入っているラヴェンダーのものだった。
 彼が踏みとどまったので、ヴァレリーはできるだけ急いで身を離し、斜めになっていた傘を立て直した。 その短い間、心の中で一つの事実だけがぐるぐる回っていた。
 伯爵と子爵は、どちらも清潔そのものだ。 汗ひとつかかないような顔をしているし、無精ひげを生やしているところなんか見たこともない。
 銀の柄の傘を受け取ると、トマスは立ち止まったまま、ひとつ大きく息をした。
 それから、いきなり本題に入った。
「もう待てない。 ヴァレリー・コックス嬢、僕の妻になってくれませんか?」







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