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37 申し出の数
ふとヘレナは物悲しい気分になった。
見た目通り性格のいいヴァレリーとの共同生活は楽しい。 だが長く続きそうになかった。 ラルストン伯トマスが、始終花を贈ってくるからだ。
仕事の帰りに道端で偶然会って、立ち話をすることもあると、ヴァレリーは言っていた。 もちろん男のほうが出会いを演出したにちがいない。 トマスは相当本気なのだ。
「でも私、お誘いは断ったわ。 妙な評判を立てられたくないもの。 雇い主のバクスターさんも、お客様に深入りするなと言うし。 愛想よくして店に来てもらうのはいいのよ。 でも、店の外で会うのは遠慮しないと」
そうヴァレリーは言う。 たしかに正論だった。
ハリーは、もっぱら楽屋のほうに花をくれた。 だからヘレナはもう彼といい仲なのだと思う同僚もいて、まだ下宿に住んでいると知ると驚いた。
「早くものにしちゃいなよ。 貴族の若だんなが脇役の女の子を追いかけるのは珍しいんだから。 気をもたせすぎると、スター女優に取られちゃうよ。 あんないい男、なくしたらもったいないじゃないか」
仲間のうち、気立てのいい年増のシャーリーが忠告してくれた。 ヘレナはにっこり笑ってうなずいたものの、なかなか踏み切れないでいた。
一時の愛人でも、女優の場合、相手が貴族ならかえって箔がつく。 親切なハリーなら芝居を応援してくれるだろうし、今よりいい役がつくことは明らかだ。
だが、それには前提条件があった。 彼に抱かれなければならない。
そう考えるといつも、口に苦いものがこみあげてくる。 きしむ床と埃くささ、そして風呂など入ったことのないような男の体臭が記憶をどっと占領して、涙がにじみそうになるのだった。
あのときは、ああするしかなかった── 何度自分にそう言い聞かせたことか。 決断そのものを後悔したことはない。 本当にああするしかなかったのは事実だし、それでうまくいった。
でもあの一夜のせいで、ヘレナは男嫌いになった。
ヘレナはハリーから少し体を離して、ぽんぽんと軽く彼の手をなだめるように叩き、囁き声で言った。
「すばらしいお申し出だわ。 だけどもう少し自由でいたいの。 ヴァレリーも急に住むところがなくなったら困るだろうし」
ハリーは静かに手を引き、指を折って数え始めた。
「これで何度目かな」
「え?」
「君に申し出を断られた回数。 先週の火曜は言ったっけ?」
ヘレナは目を見開いた。
「えぇと、ええ」
「じゃ、今日で九回目だ」
そこでハリーは、いたずらっぽく口の端で微笑した。
「あと三回提案して、それでも駄目なら、いさぎよく諦めるよ。 十三回まで行くと縁起が悪いからね」
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