表紙目次文頭前頁次頁
表紙

アンコール!  35 紳士的紳士



 ただの女好きの貴公子── ハムデン子爵ハリーを、そう考えることもできた。 だがヘレナは、そんなふうに軽く片付けることができなかった。
 ハリーが楽屋に入ってくると、周りの女の子たちがざわめく。 それは彼が貴族だからだけではなく、すっきりした魅力的な雰囲気があるためだった。
 また、ハリーは愛想もよかった。 女優の卵たちだけではなく、踊り子や合唱団員にいたるまで、紹介された娘たちの顔と名前はすぐ覚えて、会うと如才なく挨拶した。 それに楽屋番に心づけも欠かさない。 誰もがハリーを気さくな紳士として好ましく思っていた。


 そもそも、トマスと一緒にいなければ、ハリーは相当目立つはずだった。 まっすぐな鼻筋と、ユーモアをたたえた大き目の口元、温かい茶色の眼の持ち主なのだから。
 だが、親友がトマスというのは分が悪い。 トマスはどこにいても人目を引くからだ。 彼は大変な美形というわけではなかったが、ただの美男以上に印象的で、一度会ったら忘れないほどの存在感があった。
 ただし、ヘレナはトマスといると落ち着けなかった。 彼女も個性が強いほうなので、トマスが内に秘めている激しさがびんびんと伝わってくるのだ。 ヴォクソールの小道でトマスが怒ったとき、心の中で火花が散るのが見えるようだった。


 どっちみち、トマスはヘレナを単独で誘うことはない。 彼の関心がヴァレリーにあるのは、はっきりしていた。
 だから楽屋を訪れるのは、いつもハリーだけだった。 しかし、大胆な申し出をするわりには、他の男のようにヘレナを抱きよせようとしたり、廊下の隅で壁に押し付けて無理やりキスを求めたりすることは、まったくなかった。
 ハリーはこれまでヘレナが出会ったことのないタイプの紳士で、そのせいでヘレナは不安になるのだった。








 ある火曜日のこと。 外は大粒の雨が降っていた。
 こういう天候こそ、男たちの付け入るチャンスだ。 楽屋口には続々と馬車が横付けされ、ひいきの女の子を乗せて送っていこうとする連中でごったがえした。
 ヘレナも誘われた。 相手は久しぶりにロンドンに出てきたという若い地主のヘンリー・ステートだ。 彼は楽しく酒を飲ませておけばすぐ眠くなってしまうので、危険のないカモの一人だった。
 馬車を早めに雇って外で待たせてあるから、とはしゃいで言うヘンリーと連れ立って外に出ると、少し離れた角にいるはずの辻馬車は消えていた。
 近くに停まった別の馬車の御者台から、ぎょろ目の御者が合羽〔かっぱ〕を濡らして膝を震わせながら、皮肉っぽく告げた。
「横取りされちまったよ。 運賃を倍出すっていわれてよ。 俺に言ってくれりゃいいのに」
「くそっ」
 ヘンリーが地団駄を踏んでいる脇でヘレナが苦笑いしていると、背後から囁かれた。
「僕のは自前だからね、すぐ乗っていけるよ」
 ヘレナが振り向くと、そこにはにっこり笑ったハリーの顔があった。








表紙 目次 前頁 次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送