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表紙

アンコール!  33 夜にも働く




 ヘレナは黒っぽい服装をして、闇にまぎれてサイラスの屋敷にすべりこんだ。
 いつものことなので、通用門は開けてあった。 といっても鍵を外してあるだけで、掛け金は下りている。 その掛け金には仕掛けがあり、ピンを差し込んで外すようになっていた。
 暗い中でピン穴を探すのは手間がかかる。 ヘレナは内心で文句を言いながら、二回失敗した後で、ようやく掛け金を動かして扉を開いた。 そして、まだまだ軽い足取りで、暗く闇に沈んだ屋敷の裏手に回っていった。


 サイラスのほうも深夜なのに元気で、極度に片付いた広い部屋を歩き回っていた。 ヘレナの到着を待ちかねていたらしい。
「おう、やっと来たか」
「遅刻はしてないはずよ」
 ヘレナは顔をもたげて、柱にかかった時計の時刻を確かめた。 サイラスはそんな彼女の様子には構わず、持ち歩いていた手紙の束を机に置いた。
「上から読んでくれ。 急ぐんだ」
 ヘレナはこういう状況には、もう慣れていた。 だから怒りもせず、小さく肩をすくめてからマントを脱ぎ、椅子に座って手紙を開いた。


 しばらく作業に没頭していると、すぐ時は過ぎ去っていった。
 次に断固として顔を上げ、仕事時間が終わったのを指摘したのは、ヘレナのほうだった。
「はい、今夜はここまで。 簿記の続きを教えて」
「おい、雇い主はどっちだ?」
 ぶつぶつ言いながらも、サイラスはしぶしぶ手帳を閉じ、ヘレナが差し出す会計簿を掴んだ。
 そのとき、手袋を取った素肌に指が触れた。 サイラスはすぐ手を引っ込めたが、同時に眉をしかめて呟いた。
「氷のように冷えているぞ」
「ええ、外は北風が強いの」
「寒いなら、遠慮なく言うべきだ。 いつもずけずけ話しているくせに、なぜ言わん」
「暖炉の火を強くしてくれるの?」
 ヘレナが大きな笑顔になるのに比例して、サイラスの渋面はひどくなった。
「君が風邪でも引いて来なくなったら、こっちが困るんだ」
「こんなに安く雇える秘書はいないもんね」
 そこで珍しく、サイラスが噴いた。
「何を言っとるんだ! 君の半額で喜んでわたしの手伝いをするという奴が、せちがらい世の中にひしめいておるんだぞ」
「そして雇われたら、とたんにあなたの懐を狙うのね」
「……そうだ」
 サイラスは額に手を当ててみせたが、指の下で眼がきらめいた。 彼が自分との会話を楽しんでいることを、ヘレナはとっくに気づいていた。


 勉強時間が終わると、ヘレナが入れたブランディ入りのトディ(温かい飲料)を二人で飲んだ。 それがいつの間にか習慣になっている。 それに、ますます寒くなる中、ヘレナにとっては体を中から温め、一人ぼっちで家路につくときの助けになっていた。
 半分ほど飲み終えたとき、ヘレナの瞼が急に重くなった。 やはり疲れていたらしい。 口に手を当てて、あくびを噛みころしていると、サイラスが声をかけてきた。
「頭が揺れているぞ。 今夜はだいぶ、よれよれになっているな」
「昼間、ちょっとお出かけしてて」
 ヘレナは気取って答えた。 するとサイラスは、きっとした表情になった。
「昼間? 芝居は夜興行のはずじゃないか?」
「ええ、そうよ。 ただ今日は休みを取って、ヴォクソールに行ったの」
「男とか?」
 サイラスは遠慮ない。 彼に妙なことを考えさせたくないので、ヘレナはすぐ説明した。
「紳士二人に誘われたの。 同室のヴァレリーと四人で行ったのよ。 気球のレースを見てダンスをして、回転木馬にも乗ったわ。 楽しかった。 でも、それだけよ。 後は晩御飯をおごってもらって、明るいうちに帰ってきたの」
「ふん、見かけは紳士でも中身は狼かもしれんぞ」
「あら、男の人はたいてい、そうでしょ?」
 ヘレナは明るく笑った。
「深入りするつもりはないわ。 こっちから誘うつもりもね」
「初めはそう思ってるんだ。 どんな娘でも。 だがそのうち気持ちが変わってくる。 知らないうちに相手に慣れ、寄り添っていくんだ。 そして、気づくと罠に落ちている」
 それは驚くほど苦い口調だった。 昔の悲劇の木魂〔こだま〕をよみがえらせたような。







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