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表紙

アンコール!  32 ためらう女




「役所?」
 トマスは危なっかしげに首を振った。
「あいつら、ちゃんと仕事をしてるのか? 前に移民局へ行ったときの騒ぎを覚えているだろう?」
「ああ」
 ハリーがにやりと笑った。
「未整理の書類が積み重なって、事務員が下から引っ張り出すと、埃だらけになって崩れてきたな」
「どこも、あんなもんじゃないのか?」
「それはないよ。 全部があれなら国の運営なんかできない」
「まあ、そうか」
 まだトマスは疑わしそうだった。


「ともかく、何かわかったらすぐに知らせるから」
 その言葉を残して、トマスはハリーと共に別れを告げた。
 二人を乗せた馬車が去っていくのを見送りながら、ヘレナがぽつんと言った。
「トマスさんは、あなたと連絡を取っときたいみたいね」
「いい人だわ、確かに」
 そう小声で答えると、ヴァレリーはヘレナの腕を取って、長々と続く階段を上り出した。
「でもできれば、あまり深入りしたくないの」
「用心深いのね」
「父が牧師だったから」
 ヘレナは驚いて目を見張った。 ヴァレリーが具体的に家族のことを語ったのは、初めてだった。
「まあ、そうなの? しつけが厳しかった?」
「いいえ、優しい父だったわ。 でも道徳はきちんとしていた。 結婚前はキスしちゃいけないって」
「うわ〜真面目」
「ちょっと堅すぎるわね」
 ヴァレリーもヘレナに合わせて、くすくす笑った。
「でもね、私ほんとにキスしたことないの。 あ、山羊とはしたことあった」
「山羊?」
「そう、隣のベティ。 引いていた子供が綱を放しちゃってね、道をとことこ走ってきたから、引きとめようとしたら顔がぶつかって」
 ヘレナは声を立てて笑った。
「それが初キス? おまけに相手はメスじゃないの」
 たわいのない話を続けていると、連続三つの階段もそれほど疲れないで済んだ。


 早めの夕食をトマスたちにおごってもらったおかげで、二人は暗くなった後も満腹で、のんびりお茶を飲んだだけだった。
 温かいだけが取りえの薄い紅茶を飲み終わった後、ヘレナは着替えを始めた。
 ヴァレリーが気づいて、気の毒そうな顔をした。
「今日も質屋に?」
「そう。 舞台で飛んだり跳ねたりしてない分、元気もりもりよ」
「私は疲れたわ。 遊び疲れなんて贅沢だけど。 もうまぶたがくっつきそう」
「戸締りはきちんとしていくわね。 じゃ、ゆっくり休んで」
「夜道、気をつけてね」
 いつもながら、ヴァレリーの声に不安がにじんだ。 ヘレナは彼女にとって、ロンドンでただ一人の親友であり、頼りになる人生の先輩でもあった。







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