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アンコール!  23 馬車の中で




 時は秋の初めで、まだ寒いという季節ではなかった。
 だから娘たちが短いケープをまとって降りていくと、トマスはわずかに目を見張り、ハリーのほうはあからさまに大きな笑顔になって、明るく言った。
「これは二人とも美しい! 水色が似合いますね、ヘレナさん。 まるで風の精のようだ」
 歯の浮くような褒め言葉だ。 でもハリーは言い方を心得ていた。  彼の口調には、何を言っても信じたくなるようなところがある。 誠意、というべきなのだろうか。 前にヴァレリーが言っていたように。
 それに、いかめしい美貌のトマスとちがって、同じぐらいの身長でもハリーには圧迫感がない。 柔らかくうねる暗めの金髪と、いたずらそうに光る茶色の眼は、実年齢より若々しく、ときに少年のように見えた。
 はにかんでいるヴァレリーは、無言のトマスに手を取られて、先に馬車に乗った。
 その間に、ヘレナはハリーに笑顔を向けて、挨拶を返した。
「まあ、素敵。 それならこれからも青い服を着ましょうか。 でも真冬になったら、氷の精と呼ばれそう」
 ハリーも笑顔で手を差し出し、馬車にいざないながら応じた。
「だったら上に白いコートを着てください。 まばゆくて、雪の女王と言われますよ」


 ゆったりした馬車に腰を落ち着けてからも、ハリーはずっとその調子で、向かいに座ったヘレナに話しかけていた。
 彼は楽々と会話した。 相手が誰でも話題にことかかないようだ。 グロースター劇団のこともよく知っていて、あそこの小道具係は舞台で使う剣をしっかり作りすぎるから、たとえブリキ製だとしても手を切らないように、などと冗談交じりに忠告してくれた。
 ハリーの快い声が雰囲気を和らげていなければ、ぎこちない空気が車内にただよっていたかもしれない。 トマスはほとんど口をきかず、前に座るヴァレリーのスカートに触れないよう、長い脚を合わせて後ろに引き、ときどき窓から街の様子を眺めていた。
 ヴァレリーのほうは、ときどき話しかけるヘレナに小声で答える他は、うつむきがちだった。 ほんのりと上気した白い頬が、前の男性と視線が交差するたびに、いっそう桜色に染まった。


 伯爵の御者は腕がよく、ごった返す繁華街を上手に乗り切って、思ったより早くロンドン一番の遊園地であるヴォクソール・ガーデンに到着した。
 入り口には万国旗が飾られ、樹木で覆われた奥のほうでは、派手な気球が強風にゆらめいていた。 平日の午後にもかかわらず、人々がどんどん入場していく。 ヘレナたち一行もさっそく馬車を降りて、広い通路を中へと向かった。
 道の両側には、さまざまな出店がひしめいていた。 陶器店、果物屋、玩具屋に刃物屋。 パイからアイスクリームの屋台まで、食事関係の店がずらりとあり、古本屋もいくつか、売り場を争うように本を並べていた。
 四人は、まず最初に見つけた射的屋に足を運んだ。 コルク弾の銃で小さな陶製の的を五個倒せば、景品がもらえるのだ。
 驚いたことに、ハリーはまずヘレナに銃を渡して、撃ってみないかと言った。
「的を嫌いな奴だと思って、狙ってごらん。 口うるさいおばさん、吠える近所の犬、威張り散らす座長とか。 きっと当たるよ」
 すっかり口調も打ち解け、銃の構え方を教えてくれるとき、手と手が触れ合った。
 この見事な接近ぶりとは対照的に、トマスはまだヴァレリーと付かず離れずでいた。
 自分から本屋に行って、店員のヴァレリーを誘い出したくせに、トマスはそれ以上どうしたらいいか、わからないように見えた。







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